The Project Gutenberg EBook of Kesshouki, by Andreev Leonid Nikolaevich
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Title: Kesshouki
Author: Andreev Leonid Nikolaevich
Translator: Shimei Futabatei
Release Date: October 1, 2010 [EBook #34013]
Language: Japanese
Character set encoding: UTF-8
*** START OF THIS PROJECT GUTENBERG EBOOK KESSHOUKI ***
Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka
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アンドレーエフ作
二葉亭譯
血笑記
[Pg 1]
血笑記
二葉亭譯
(前編、斷篇第一)
…物狂ほしさと怕ろしさとだ。
始て之を感じたのは某街道を引上げる時であつた。
もう十時間も歩き續けて、休憇もせず、歩調も緩めず、倒れる者は棄てゝ行く。
敵は密集團となつて追擊して來るのだ。
今附けた足跡も三四時間の後には敵の足跡に踏消されて了はう。
暑かつ[Pg 2]た。
何度であつたか、四十度、五十度、或は其以上であつたかも知れんが、唯もう不斷に蕩々と底も知れぬ暑さで、いつ涼しくなる目的もない。
太陽は大きく、火の燃ゆるやうに、怕ろしげで、或は大地に近寄つて、用捨のない火氣に引包み、燒盡さむとするのかと危ぶまれた。
眼を開いてゐられゝばこそ。
小さく、窄んだ、罌粟粒程の瞳孔が閉ぢた眼瞼の下に蔭を求めても、蔭はなく、日は薄皮を透して、血紅色の光線を疲れ切つた腦中へ送る。
けれども、流石に目[Pg 3]を閉ぢてゐれば樂なので、私は長い間、事に寄ると何時間といふ間、目を閉ぢて、前後左右を引上げて行く物音を聽きながら行つた。
人馬の重たげな揃はぬ足音、鐵の車輪の小石を引割る音、誰やらの苦し氣な精の盡きた溜息、燥いだ唇を鳴らす乾いた音などが聞える。
皆默つてゐる。
啞者の軍の行くやうだ。
皆倒れゝば默つて倒れる。
それに躓いて倒れる者も、默つて起上つて、顧視もせずに行く。
宛で啞者である上に目も耳も聾ひてるやうだ。
私も幾度か躓いて倒れたが、其時は我にもなく目を開く――と、目に見える物は、人間離れした虛らしい、此世が狂つて苦し氣に譫語をいふやうな光景だ。
炎ゆるや[Pg 4]うな空氣が搖れ、蕩けさうな石も默つて搖ぎ、遙か向ふの曲角を曲る人の群も、大砲も、馬も、大地を離れて、音もなく、ジェリーのやうに震ひながら行く所は、生きた物とは見えないで、體は烟の幽靈のやうである。
大きな怕ろしげな、ツイ鼻の先に見える太陽が、銃身に金具に光を宿して、小さな、無數の太陽を映出し、その眩ゆい光が横合からも、足元からも、眼に射込み、白い㷔を噴いてピカ〳〵と鋭いこと、宛然白熱した銃劒の切先を見るやうだ。
燒立て〳〵物を枯らさむとする暑熱は、身に沁み、骨に透り、髓に徹して、時と[Pg 5]しては胴の上にぶらつくものは首ではなくて、何とも得體の知れぬ、重こいやうな、輕いやうな、圓い不思議な物であつて、どうやら自分の物ではないやうに思はれ、薄氣味惡くなることもある。
と、其時、偶然我家が眼の前に浮ぶ。
部屋の隅で、水色の壁紙の片端が見えて、卓の上には、水の入つた壜が其儘手付ずに埃塗れになつてゐる。
これは私の卓で、跛なので、短い方の脚の下には紙を丸めて敷つてある。
隣室には、見えぬけれど妻も忰も居るらしい。
若し聲が出せたら、大聲出して喚いたかも知れぬ――水色の壁紙の片端に、[Pg 6]埃塗れの手附かずの壜と、見る所は尋常の、際立つた物ではないけれど、それに其程目を駭かされたのである。
今だに憶えてゐるが、立止まつて兩手を擧げると、トンと誰かに背後から衝飛された。
ツカ〳〵と前へ出る――と、もう其儘暑いことも草臥れたことも忘れて、愴惶しく、人を押分けて、何方ともなく進んで行つた。
際限もない、無言の人の列の間を、右左に赤い炎えそうな頸窩を視て、グタリと下げた熱い銃劒と殆ど擦れ〳〵に大分進んだ時、何を私は爲てゐるので、何處へ此樣に急いで[Pg 7]行くのだらうと、立止まつた。
で、急いで向直つて、無理無體に列外へ出て、とある窪地を越え、其處の石の上に焦燥と腰を卸した所は、このざらざらの燒石を目的に、これまで藻搔いて來たやうであつた。
其時始めて氣が附いた。
日光の惶つく中を、暑さに弱り、ヘト〳〵に草臥れて、無言でふら〳〵と行つては倒れる者は、これは皆狂人だ。
何處へ行くのか、何で日に照付けられるのか、誰も知らない、誰も何も知つてゐない。
胴の上に在るのは首ではなくて、變な気味の惡い物だ。
と見ると一[Pg 8]人、矢張り私のやうに、愴惶しく列外へ脫出してバタリと倒れる、續いて又一人、又一人ヽヽヽと、群がる人の頭の上に馬の首が見える。
血走しつた物狂ほしい目色をして、齒齦まで露出した所は、不氣味な奇怪な叫聲を立てゝゐるやうに見えたけれど、其聲が聞えるでもなかつた。
首が見えて、バタリと倒れると、其處に暫し人だかりがする。
皆足を駐めて、皺嗄れた冴えぬ聲で何やら喚くとドンと一發銃聲が聞えて、又皆默つて動出して、際限もなく續いて行く。
私はやがて一時間も石の上に腰を掛けてゐたが、其間絕えず人影は眼前を[Pg 9]過ぎ行いて、空はゆすれ、地は搖ぎ、遠く幽靈の如くに行く隊伍の影は戰くやうに見えた。
骨を枯さむとする暑さは更に肉に徹つて、瞥りと眼に映つた物は、直ぐ忘れて了ふ。
眼前を過ぎ行く人影は暫くも絕えぬが、過ぎ行く人の誰だかは分らない。
一時間程前に此石に腰を掛けてゐたのは私一人だつたが、今は周圍に灰色の人が一塊り集まつた。
或者は地に伏して動かない。
死んでゐるのかと思はれる。
或者は私のやうに石に腰を掛けて、氣脫けしたやうな面をして、通る人を見てゐる。
銃を持つてゐる者は兵士らしいが、丸裸に近い姿[Pg 10]で、蘇枋染めの、見るも厭らしい色合の肌をした者もある。
つい其處に誰だか素肌の背を上に向けて寢てゐる。
稜立つた熱い石に面を伏せて平氣でゐるさへあるに、仰向けにした掌を見れば白いから、死人のやうであるけれど、背の色は生人のそれの如く赤い。
唯燻肉のやうに聊か黄味を帯びてゐるので、此世の人でない事が知れる。
私は此死骸の側を退きたかつたが、退く力が無かつたのでふら〳〵しながら、矢張ふら〳〵と幽靈のやうに行く人の際限もなく續く列を見てゐた。
今にも日射病に罹るのは頭の工合でも知れてゐたが、平氣[Pg 11]で其に罹るのを待つてゐた。
宛で夢心地で、死といふものは、不思議な綾に絡むだ夢想の街道の立塲か何ぞのやうに思はれた。
と見ると、連を離れて思切つた體に此方を目蒐けて來る一人の兵がある。
其姿がしばし窪みに隱れて、やがて又其を這出して來るのを見れば、危ない足取りで、手も足も頽然となりさうなのを、然うはさせまいと力むのが、もう精一杯の所らしい。
正面に私を目蒐けて來るので、苦しい夢にもやもやと腦を閉ぢられさうな中でも、駭然として、「何だ?」
[Pg 12]聲を掛けると、兵はピタリと立止まつた。
聲の掛るのを待つてゐたのかと思はれる。
髯むしやの大男で、襟の裂けた服を着て、衝立つてゐる。
銃を持つてゐなかつた。
ズボンは釦一つで支へてゐて、その綻びの切目から白い肌が透いて見える。
手足が頽然とだらけるのを、だらけさすまいと氣を張つてゐるけれど、もう其も叶はぬ。
一つに寄せた手が直ぐとダラリと左右に垂れる。
「貴樣如何したのか? まあ、坐れ。」
けれども兵は衝立つたまゝ、締めても〳〵だらけながら、默つて人の面を視てゐる。
私も我知らず[Pg 13]起上つた。
よろ〳〵しながら其眼を覗き込むと限りなき怖と狂つた氣が浮いて見える。
誰の瞳も皆蹙まつてゐるのに、これのばかりは眼一杯に擴がつてゐる。
かうした大きい窓から覗いたら、外は嘸ぞ火の海のやうに見えやう。
偶然としたら、これの眼色に浮んでゐるのが死の影ではあるまいかと思はれた――いや、さう思はれたばかりではない、それに相違なかつたのだ。この眞黑な、底も知れぬ、烏のそれのやうにオレンジ色の細い縁を取つた瞳には、死以上、死の恐怖以上のものが浮いてゐたのだ。
[Pg 14]「彼方へ行け、彼方へ!」と一足退つて、私は喚いた。
と、かう言ふのを待つてゐたやうに、其兵がバタリと私の上へ倒れ懸つた。
頽然とした、物を言わぬ、大な奴に推倒されて、私も倒れた。
わなゝきながら、壓付けられた足を引外して、跳起るや――もう方角も何も有つたものでない、唯人の居ぬ方へ、唯日光のちらつく遠方へ逃げやうとする時、右手の山の嶺でドンと一發鳴る。
直ぐ其後から木魂のやうに續けざまにドン〳〵と二發鳴る。
と、何處か頭上を破裂彈が飛んで行く。
其音に大[Pg 15]勢が喜び勇むで、喚き、叫び、哮るやうな聲が籠つて聞えた。
敵が迂廻した!
死にさうな暑さも、怖ろしさも、疲れも、さらりと忘れる。
氣が判然する。
思ふ所が顕かに浮上る。
息せき切つて、走つて立直つた列に就かうとする時、晴やかな嬉しさうな面がちら〳〵見え、皺嗄れ聲で喚く聲が聞え、號令が聞え、無駄口叩く聲も聞えた。
日は邪魔にならぬやうに競上りでもしたのか、朦朧となつて押鎭まる――と、又魔法使がキゝと叫ぶやうな音を立てゝ、空を截つて[Pg 16]破裂彈が飛ぶ。
私は隊に近づいた…
(斷篇第二)
…馬も兵も皆戰死した。
第八砲列も其通り。
我第十二砲列で、三日目の夕刻まで無事であつたのは僅か砲三門と、――跡は皆壞されて了つたので、――それに砲手六人に將校一人といふのが即ち私だ。
もう二十時間も一睡もせず、何も食はない。
三晝夜もサタンの磤めき哮る中に居たので、狂氣の黑雲に引包まれて、地を離れ、空を離れ、味方[Pg 17]を離れて、生きながら狂人の如くに小迷ふ。
死人は靜かに臥ても居るが、吾々はくれ〳〵と立働らいて、勤める所は勤め、物を言ひ、笑ひまでして、――それでゐて宛然の狂人だ。
危な氣なく活溌に働いて、命令も明瞭下せば、又其を間違ひなく仕遂げても行くが、それでゐて、若し突然誰かを捉へて、お前は誰だと聞いたなら、うやむやの頭では、恐らく何と答へたものか、分らなかつたらう。
夢を見てゐるやうなもので、誰の顏も疾うからの馴染らしく見え、何事が起つても、矢張り嘗て有つた、覺えのある、知り拔いてゐる事のやうに思[Pg 18]はれるが、其癖誰かの顏が砲を凝と視てゐると、或は砲聲に耳を傾けてゐると、どれも〴〵皆な目の覺める程珍らしくて、解いても〳〵解き盡せぬ謎か何ぞのやうに思はれる。
何時の間にか夜になる。
それと氣が附いて、何處の隅から暗くなつて來たのかと怪しむ間さへなく、又頭の上で赫と日が照り出す。
偶々餘處から來た者に聞いて、始て戰鬪も最う三日目と分るが、それも傍から直ぐ忘れて了ふ。
如何やら暮れも明けもせぬ延たらの一日のやうで、暗い時もあれば、明るい時もあるが、何れにしても滅茶苦茶で、薩張譯が分らない。
而[Pg 19]して誰も死を畏れない。
死ぬといふのが如何な事だか、それも分らない。
三日目だつたか、四日目だつたか、覺えがないが、一寸胸壁の蔭で横になつて眼を閉ぢると、忽ち例の馴染の、しかし不思議な物が見える。
それは靑色の壁紙が少しばかりと、私のと極めた小卓の上の埃塗れの手着かずの壜で、隣室には妻も忰も居るやうだが、姿が見えぬ。
唯此時は卓の上に綠色の笠を被たランプが點つてゐたから、宵か夜中だつたに違ひない。
で、かうした所が眼前に留つて動かぬから、私は永いこと、心靜かに、ため[Pg 20]つすがめつ壜のグラスにちらつく火影を視、壁紙を眺めて、心の中で、もう夜だ、寢る時分だのに、何故坊は寢ないのだらうと思つてゐた。
で、又壁紙を眺めて見ると、唐草に、銀色の花に、格子のやうな物に、管のやうな物と――や、我居間ながら、かうも能く見識つてゐやうとは思ひ掛けなかつた。
時々目を開いて、處々美しい明るい縞の入つた眞黑な空を眺めては、又目を閉ぢて、更に壁紙を視、壜の光るのを視て、もう夜だ、寢る時分だのに、何故坊は寢ないのだらうと思ふ。
一度近くで砲彈が破裂した。
其時何やら兩足にふわりと[Pg 21]觸れたと思ふと、誰だか大聲で、砲彈の破裂した音よりも上手の聲で、ワッと叫んだ。
誰か射られたなと思つたが、起上りもせんで、私は凝然とあからめもせず靑色の壁紙と壜を眺めてゐた。
軈て起上つて、歩き廻り、指揮をしたり、人の顏を覗き込むだり、照準を極めたりしたが、心では矢張り、何故坊は寢ないのだらう、と思つてゐた。
一度傳騎に其理由を聞いたら、永いこと何だか事細かに説明して呉れて、二人で點頭あつた。
傳騎は笑つた。
其面を見ると、左の眉を釣上げて、背後の誰かに擽ぐツたい目交をしてゐたが、背後[Pg 22]には誰かの足の裏が見えたばかりで、外には何も見えなかつた。
此時四邊は最う明るくなつて居たが、不意にポツリと降つて來た。
なに、雨と云つても矢張故鄉で降るやうな雨で、ほんの詰らん點滴では有つたけれど、不意に、降らずもの時に降つて來たので、皆濡れるのを畏れて、狼狽して射擊を中止し、砲も何も放散かして置いて、やたら無性に其處らの物蔭へ逃げ込むだ。
只た今私と物を言つてゐた傳騎は、砲車の下へ潜り込むで身を縮めてゐたが、――危ない、今にも壓潰されるかも知れないのに、[Pg 23]太つた砲手は、何と思つてか、或る戰死者の服を剝ぎに掛つた。
私は陣地を走り廻つて、蝙蝠傘だか、外套だかを捜してゐた。
蔽さる雲の中から雨の降り出したのは隨分廣い塲面だつたが、其塲面全體にふツと妙に寂然となる。
榴霰彈が一つ後馳にブンと飛んで來て、パッと破裂して、又寂然となる。
寂然となつたので、太つた砲手の荒い鼻息が聞える。
石塊や砲身を打つ雨の音も聞える。
かう寂然とした中で、ぱら〳〵といふ閑かな秋めかしい雨の音を聽き、濡土の香を嗅ぐと、淺ましい血羶い夢が瞬く間覺めたやうな氣がして、雨にき[Pg 24]らつく砲身を見れば、幼い頃の事でもない、初戀でもない、しめやかに懷かしい何かゞ、不思議にもふと想出される。
此時遠方でドンと最初の一發が際立つて音高く鳴ると、一寸寂然としたのに魅せられてゐた氣味は去つて、皆隱れ塲から這出す。
逃込む時のやうに、這出す時も唐突だつた。
太つた砲手が誰かを叱り飛ばす。
砲が鳴る、又鳴る――と散々惱まされ拔いた腦が又絳い霞に直と鎖される。
雨は何時止んだか、誰も氣が附かなかつたが、砲手が戰死して其むく〳〵と太つた顏の肉が落ちて黄ばむでも、尙ほ點滴が垂れてゐたのを今に覺[Pg 25]えてゐるから、何でも隨分長いこと降つてゐたに違ひない。
…未だ生若い志願兵だつたつが、私の前に直立して擧手の禮をしながら報告するのを聞くと、司令官から、其隊はもう二時間支ふべし、されば援兵を送るといふ命令ださうだ。
私は何故坊はまだ寢ないのだらうと心では思いながら、口では何時間でも支へてお目に掛けると答へた。
さう答へた時、何故だか其志願兵の面がふと目に留まる。
大方非常に蒼褪めてゐた所爲だつたらう。
之程蒼白い面を見た事がない。
死人の面だつて、此髭のない若[Pg 26]若しい面から見れば、まだ紅味がある。
必ず途中で度膽を拔かれたのが未だ直らなかつたのに違ひない。
目庇へ手を擧げてるのは、この慣れた無雜作な手振で、氣も漫ろになる程の怖ろしさを紛らさうとしてゐたのだらう。
「怖ろしいのか?」といひながら其手に觸れて見ると、手は棒のやうに硬ばつてゐたが、當人は幽かに莞爾としたばかりで、何とも言はなかつた。
いや、寧ろ口元で微笑の眞似をしたばかりで、眼には唯初々しさ、怖ろしさが光るのみ、其外には何も無かつた。
[Pg 27]「怖ろしいのか?」と私は又優しく言つて見た。
志願兵が何か言はうとして口元を動かした時、不思議な、奇怪な、何とも合點の行かぬ事が起つた。
右の頰へふわりと生溫い風が吹付けて、私はガクッとなつた――唯其丈だつたが、眼前には今迄蒼褪めた面の在つた處に、何だかプツリと丈の蹙つた、眞紅な物が見えて、其處から鮮血が栓を拔いた壜の口からでも出るやうに、ドク〳〵と流れてゐる所は、拙い繪看板に能く有る圖だ。
で、そのプツリと切れた眞紅な物から血がドク〳〵と流れる處に、齒の無い顏でニタリと笑つて赤い笑[Pg 28]の名殘が見える。
これには見覺えがある。
之を尋ねて漸く尋ね當てたのだ。
其處らの手が捥げ、足が千切れ、微塵になつた、奇怪な人體の上に浮いて見える物を何かと思つたら、是だつた、赤い笑だつた。
空にも其が見える。
太陽にも見える。
今に此赤い笑が地球全體に擴がるだらう。
皆もう平氣で瞭然と狂人のやうに…
(斷篇第三)
…物狂ほしさと怖ろしさとだ。
[Pg 29]風聞に據ると、敵にも味方にも精神病の患者は夥しいものだと云ふ。
我軍でも精神病舎が四棟出來た。參謀部へ行つた時、副官が見せて呉れたが…
(斷篇第四)
…蛇のやうに絡み付く。
現に其友人が見て來ての話に、鐵條網の一端がプツリと切れて、ピンと跳返つて、クル〳〵と兵三人に絡み付いた。
齒が軍服を突拔いて肉に喰込むから、兵は悲鳴を揚げて、狂氣の如く轉げ廻つてゐる中に、一人は死ん[Pg 30]で了つたが、其死骸を跡の二人が引摺つて轉げ廻る。
やがて生きてゐるのは一人となる。
生殘つたのが、二人の死骸を突離さうとするけれど、死骸は附纏つて來て、一緒に轉がり、三人の體が上になり下になりしてゐる中に、ふと一度にパタリと動かなくなつて了つたさうだ。
友の話だと、此鐵條網一つで二千からの戰死者を出したと云ふ。
皆鐵條網を截らうとして、蛇に卷付かれたやうに、進退の自由を失つてゐる處を、大小の彈丸を雨の如く間斷なく浴せ蒐けられたのだ。
怖ろしいとも何とも云樣がない。
若し逃げる[Pg 31]方角が分つてゐたら、臆病風に吹卷られて此時の攻擊は總崩れになつたらうが、何しろ十重二十重鐵條網を張渡してある。
必死になつて其を破ると、今度は底に杭を打込んだ狼穽が幾つとなく掘つてあつて、是が又迷宮同樣とあるから、皆度を失つて了つて、逃げる方角が附かなかつたのだと云ふ。
或者は全く盲目のやうになつて、漏斗形した深い坑に踏ん込み、尖つた杭の先に芋刺になつて、虚空を掴むで藻搔く。
宛然玩具の道化人形が踊るやうだ。
其上へ又來ては突刺るから、まだ溫味のある、或は冷え切つた、血塗の體がうよ〳〵と盛[Pg 32]上つて、直き坑一杯になつて了ふ。
其處にも此處にも腕が如龜々々と突出てゐて、痙攣を起してヒク〳〵してゐる指先で何にでもしがみ付く。
一度陷たら、最う出られない。
剛ばつて蟹の鋏のやうになつた數百の指が、無性に足を引掴み、服を引掴み、己が上へと引倒して置いて、眼肉を抉り、首を締る。
が、大抵は酒にでも醉つてゐるやうに、正面に鐵條網を目蒐けて駆出し、引掛つて喚き叫んでゐる中に、彈丸に中つて往生して了ふ。
さうはいふものゝ、醉漢のやうになるのは一般の事で、鐵條網に手や足を絡められゝば、誰でも[Pg 33]大に罵つたり、或は笑つたりする。
而して其儘死んで了ふ。
この話をした男も、朝から飲まず食はずでゐたのださうだが、不思議な氣持で、怖ろしい怖ろしいで目が眩む最中に、一寸の間無性に愉快になる――怖ろしいのが愉快なのだ。
誰だか隣りで歌を唄ひ出したから、一緒になつて唄つてゐると、頓て其處らの者が皆仲間へ入つて立派な合唱になる。
拍子が中々好く揃ふ。
何を唄つたか、覺えがないが、何でもかう愉快な舞踏歌のやうな物だつたと云ふ。
で、唄つてゐると、其處らが血塗に眞紅になる。
空まで眞紅に見えて、天地間に[Pg 34]何か一大變異、奇怪な變化が起つたやうな氣勢で、物の綾色も分らなくなる。
水色靑などゝいふ穩かな目に慣れた色は消えて了つて、太陽が眞紅にベンガラ色に炎える。
「赤い笑だ」
と私は言つたが、相手は其意味が了解んで、
「さう、笑ひもした。
今話した通りだ。
宛然皆酒に醉つてるやうだつた。
いや、舞踏も行つたらう。
何でも何か行つた。
少くも其三人の兵の藻搔く所は、宛然舞踏のやうだつた。」
今でも判然覺えてゐるさうだが、此男が胸に貫[Pg 35]通創を受けて倒れてからも、失神する迄は、舞踏で誰かと足拍子を揃へるやうに、足をピク〳〵と行つてたさうだ。
今となつて此日の攻擊を憶出すと妙な氣持がして、怖ろしい事は怖ろしいが、最う一遍彼樣な思をして見たいやうな氣もすると云ふ。
「而して又胸へ一發喰ひたいのか?」
と私がいふと、
「馬鹿言へ! 出る度に彈丸を喰ふとは極つとりやせん。
そんな事いふけど、君、目覺しい働きをしてさ、勲章貰ふのも惡くないぞ。」
[Pg 36]さういふ其身は鼻が尖つて、顴骨が出て、眼が凹むで、黄ろい顏をして仰向きに臥て、てもなく死人だのに、まだ勲章を夢に見てゐるのだ。
もう化膿し出して、甚い熱で、三日經てば穴の中へ轉がし込まれて、死人の仲間へ入らなければなるまいに、臥ながら目を開いて夢を見て、莞爾々々して、勲章の噂をしてゐるのだ。
「それは然うと、阿母さんの所へ電報打つたか?」
と私は聞いて見た。
すると、ハッとした樣子で、險しい眼色で忌々しさうに私の面を眺めたなり、相手は默つて了つ[Pg 37]たから、私も默つてゐた。
負傷者が呻いたり、譫言いつたりするのが耳に附く。
軈て私が起上つて出て行かうとすると、友は熱は有つても未だ力の脫けぬ手で、緊り私の手を握つて、肉の落ちた炎えるやうな眼で、悲しさうに凝と私の面を視詰めて、如何にも途方に暮れたといふ體で、
「君一體如何したつて云ふンだらう? え、君?如何したツて云ふンだらう?」と恟々しながら手を引張つて、切りに答を逼る。
「何が?」
「何がつて、一體…今度の戰爭さ。
母は僕の歸るの[Pg 38]を待つてるのだ。待つてたつて、君、如何なるもんか…國家の爲――其樣な事は母にや分りやせずさ。」
「赤い笑だ。」
「また! 君は串戯ばかり言つてるけれど、僕は眞面目だよ。
如何にかして納得させたいけれど、納得させやうがない。
まあ、君、如何な事を言つて寄越すと思ふ? そりや、實に氣の毒だ。
手紙の文句迄白髮だ。
しかし、君も」、と珍しさうに人の頭を眺めて、指差をして、急に笑ひ出した。
「君も禿げ出したなあ! 知つてるか?」
[Pg 39]「鏡が無いもの。」
「いや、しかし、白髮になる奴や禿になる奴が大分有るぞ。
おい、鏡を貸して呉れ、鏡を! あゝ、僕も何だか白髮が生えて來さうでならん。
鏡を貸して呉れ。」
譫語を言出して、泣いたり笑つたりする。私は病舎を出て了つた。
其夕方園遊會が開かれた。
不思議な侘しい園遊會で、來會者の中には死人の影も交つてゐた。
國でのピクニックの時のやうに、夕方集まつて茶を喫む筈だつたので、湯沸の工面をして、レモンや[Pg 40]コップまで用意して、矢張ピクニックの時のやうに、トある木の下を會塲と極めた。
で、一人づゝ、又は二人三人連立つて、常談など言合つて話しながら、皆樂しみにして浮浮と賑かに寄つて來たが、來ると直きに默つて了つて、成るべく顏を見合はせないやうにする。
かうして生殘つた者ばかり寄つて見ると、何となく無氣味だ。
皆見るも淺ましい薄汚ない服装をして、惡性の疥癬でも病むでゐるやうに、身體中をぼり〳〵搔く。
髮も髯も延次第で、窶れ切つて、見慣れた昔の姿はないから、湯沸を中に、顏を合せて見ると、初めて逢つたやう[Pg 41]な氣持がして、愕然とする。
度を失つてうろ〳〵する此人々の中に、馴染の面はないかと尋ねて見たが、一人も無かつた。
わく〳〵として落着がなく、起居も荒く稜が有つて、一寸した音にも恟りとし、絕えず後を見ては何かに氣を附け、何處かポカンと、不思議な穴が明く、その穴を覗いて視るも無氣味なので、烈しい手眞似で之を塞がうとするなど、如何しても見も知らぬ餘所の人で、馴染がない。
聲までが異つてゐる。
激しく、稜立つて、えいやつと物を言ふそれが、動もすれば聲高になつたり、埒もない高笑になつて、制めやうにも制[Pg 42]められぬ、といつた調子。
異つてゐるのは其ばかりでなく、木にも馴染がなく、入日にも馴染がなく、水も異臭異味を帯びた變つた水で、宛然死人と一緒に人の世を去つて、何處か別世界へでも來たやうに、眼に見える物が皆神秘で、怖ろし氣な影のやうな物が朦朧と其處らに滿ちてゐる。
入日の影は黄ばむで冷たく、何處に明味もない眞黑な雨雲が、凝つたやうに、重たさうに、其上から覆さつて、下には大地が黑々と、人の面も尋常ならぬ光を受けて黄ろく死人色に見える。
皆湯沸を見てゐたが、湯沸の火は消えて、腹には黄ろく凄い[Pg 43]入日の光を反射し、陰々として此世の物ではないらしく、何だか本體の分らぬ、奇怪な湯沸であつた。
「此處は何處だ?」と誰だか言つたが、恟々した恐怖に滿ちた聲だつた。
誰だか溜息をした。
と、わく〳〵して指の骨を鳴らす者がある、笑ひ出す者がある、躍り上つてテーブルの周圍を急遽と廻り出す者もあつたが、此頃は能く斯うして急遽と殆ど駆け出さぬばかりに歩き廻る人を見掛ける。
而して皆妙に默つてゐる、物を言つても口の中で沸々言うばかりだ。
[Pg 44]「戰地さ」、と高笑してゐたのが答へて、更に又笑ひ出したが、冴えぬ聲で、うふ〳〵と秩序なく笑ふ所は、何かゞ咽喉に塞つたやうだ。
「何が可笑しいンだ?」と、誰だつたか、向腹を立てゝ、「こら、止さんか!」
すると、笑つてゐたのが又更に咽喉に物が塞つたやうに、フゝと笑つて、而して大人しく默つて了つた。
段々に薄暗くなつて來て、雨雲は地を壓し、黄ろく透徹るやうな互の面も辛と見分られる程になつた。
誰だつたか、
「トキニ「大長靴」は何處へ行つたらう?」
[Pg 45]「大長靴」と渾名を呼ばれたのは、小造りの癖に、大きな水浸まずの長靴を穿いてゐる士官だつた。
「只た今此處に居たツけが…大長靴、何處に居る?」
皆笑ひ出した。
その笑聲がまだ止まぬ中に、暗黑から憤つたやうな尖り聲で、
「止せ! 馬鹿な! 大長靴は今朝偵察に出て討られたのを知らんか?」
「そんな筈はない。
只た今此處に居たンだもの。」
「そんな氣がしたンだ。
おい、湯沸の側の先生、レモンを一つ切つて呉れんか。」
[Pg 46]「僕にも! 僕にも!」
「レモンは悉になつた。」
「そりや不都合だ」、と忌々しさうに、情けなさゝうに、殆ど泣かぬばかりに、小聲に言つて、「レモンを樂しみにして來たンだのに。」
例のが又冴えぬ聲で締りなく笑ひ出したが、もう誰も止める者もなかつた。
が、直きに笑ひ止んで、更に又フゝと笑つて――と、默ると、誰だつたか、
「明日は攻擊か。」
すると、幾人かの聲で、忌々しさうに叱り付け[Pg 47]た、
「止せ、そんな話は! 攻擊も糞も有るもんか!」
「だつて君逹だつて知らん事はあるまい…」
「止せツてツたら、止せ! 他に話が無いぢや有るまいし。
何だ、そんな事!」
入日の影は消えた。
雨雲も浮き上つて、何處となく明るくなり、人の面も皆見覺えのある面になつた。
今迄周圍をグル〳〵廻つて居た男も落着いて、其處の椅子へ腰を卸して、
「今ごろ國ぢや如何なだらう?」
誰に言ふともなく言つたのだが、其聲に何か面[Pg 48]目なさゝうに微笑した響があつた。
と、又薄氣味惡く合點の行かぬ光景になつて、其處らの物が悉く變に見えるから、皆堪らなく夢中になつて、一度にコツプを推除け、互の肩、腕、膝に觸り合つて、饒舌り出し、喚き初め、暫く紛紛してゐたが、ふと又口を噤むで了つた。
變な光景は矢張變でならぬ。
「國ぢやア?」と誰だか暗黑から喚いた。
國の噂が始まると、ハツトして、忌々しくもなるし、胸もわく〳〵するので、聲までが皺嗄れた顫へ聲になる。
で、饒舌り出したが、時々言葉に差支へる。
[Pg 49]もう國言葉も忘れてゐるやうで。
「國ぢやア?國とは何だ? 國が何處かに有るのか? 人の物を言つてる中に口を出すな。
出すと、打發すぞ。
僕だつて、國に居る時分にや、毎日湯を沐つたもんだ――宜しいか、湯槽に湯を入れて――湯を一杯入れて沐つたもんだ。
ところが今ぢや毎日は身體も拭かんから、頭に雲脂が溜る。
雲脂が溜つて、結痂のやうな物が出來て、身體中何だか這ふやうで、むづ痒くツて〳〵…僕あ垢で氣狂ひになりさうだ。
それだのに君は國の噂を始めたな? 僕はもう畜生だ、自分ながら愛想が盡きる、自分とは思へん[Pg 50]位だ。
人間も斯うなると、もう死ぬのも其樣なに惧ろしくなくなる。
それに君逹が擊出す榴霰弾で頭が割れさうになるンだ、――頭が。
何處へ向けて擊つたつて、皆僕の頭に當るンだから。
それだのに君は國の噂を始めたな? 國とは何だ? 矢張町が有つたり、家が有つたり、人が居たりするンだらう? 僕はもう戸外へ出るのも御免だ。
見つともない! 此處に湯沸が有るけど、湯沸を見るのも極りが惡い、――湯沸を見るのも。」
例のが又笑ひ出した。
誰だか大聲に、
「糞ツ! 僕あ國へ歸る。」
[Pg 51]「國へ歸る?」
「君は軍人の本分を忘れたな? …」
「國へ歸る? おい〳〵、此處に國へ歸りたい者が一人出來たぞ。」
皆ドット笑つた。
不氣味な叫聲も聞えたが――又皆口を噤むで了つた。
矢張變でならない。
私ばかりぢやない、幾人居たか知らないが、其塲に居合した者が皆さう感じた。
その變な氣勢が、薄暗い奇怪な野から逼つて來る、岩の挟間に置忘られて、死に瀕した者が有るかも知れぬ、陰々と眞黑な谷間からも立騰る、見も及ばぬ怪しの空からも[Pg 52]降りる。
皆惧ろしさに生きた空はなく、默つて火の消えた湯沸を圍むで立つてゐたが、頭の上には漫々と邊際もない黑い影が此世を壓して、慘として音もせぬ。
と、忽ち、ツイ間近の、多分は聯隊長の宿舎あたりと思はれる處で、軍樂の彈奏が始まつて、無性に浮いた高調子の物の音色が夜の寂寞を破つて、火花のやうにパツと起る。
餘り高過ぎ、餘り愉快過ぎる程の急な亂調子で、無性に競ひ立つて浮かれてゐる。
大方彈奏者にも聽手にも、矢張吾々同樣に、漫々と邊際もない黑い影の此世を壓するのが見えるのだらう。
[Pg 53]そのオーケストラの中で喇叭を吹いてゐる者だけは、正しく自分に、自分の腦に、耳に、もうこの邊際もない無言の影を宿してゐるやうに思はれる。
險しい破れたやうな喇叭の音が、駆巡り、躍上り、餘の音を離れて何處ともなく、惧ろしさに戰き〳〵、伴ふ物もなく獨り狂つて行く。
他の樂器の音色は此喇叭の音を顧みて驚いたやうに、蹶きつ、倒れつ、起きつ、しどろもどろに見ともなく散つて行く。
それが餘り高過ぎ、餘り愉快過ぎる程の調子で、これでは餘り眞闇黑の谷間にも接近し過ぎる、――岩の狭間に置忘られて死に瀕し[Pg 54]た者が有るかも知れぬのに。
私逹は久らく火の消えた湯沸の周圍に立つて、默つてゐた。
(斷篇第五)
…もう眠つてゐたら、ドクトルが窃と突いて覺すから、私は目を覺すが否、呀といつて跳起きた。
誰でも覺されると、斯う聲を立てたものだつた。
で、天幕の外へ駈出さうとする私の手を、ドクトルは確と執つて、而して謝罪をいふ。
「唐突に覺して濟ませんでした。
お睡からうとは[Pg 55]思つたが…」
「何しても五晝夜になるンですもの…」と、私は言つたが、半分は夢で、其儘又昏々となつた。
久らく眠てゐたやうだつたが、ドクトルが私の橫腹や足を窃と突き〳〵又話し出す聲が耳に入る。
「しかし止むを得んので。
貴方もお辛からうが、實際止むを得んので。
どうも私にや……安閑として居れん。
どうも私にやまだ負傷者が取殘してあるやうに思はれて…」
「負傷者とは? 今日一日收容してゐたぢやないですか? 私を覺さんだツて好さゝうなものだ。
餘[Pg 56]り酷い! 私は五晝夜も眠なかつたのだ。」
「まあ、然う憤つたものでない」、とドクトルは口の中で言つて、無器用な手附で私の頭へ帽を冠せてから、「皆寐込んで了つてゝ、幾ら覺しても、起きんのですもの。
機關車の車輛が七臺用意してあるのだが、乗つて行手がない。
そりや私も察しる…が、何卒、まあ、行つて下さい。
皆寐込んで了つてゝ、如何しても行かうと言はん。
私だってコクリとなりさうで仕方がないのだ。
何日寢たつけか、もう覺えがない位のもので、そろ〳〵幻覺が始まりさうな氣がする。
まあ、寢臺をお降りなさ[Pg 57]い、片一方の足から。
そう〳〵…」
ドクトルは蒼褪めた顏をしてふら〳〵してゐる。
一寸でも下に居たら、其儘何晝夜も打通しに寢かねない樣子だ。
私も足に他愛がない。
と、鼻の先に眞黑な物が一列見える。
それが餘り突然で、意外で、地から湧いたやうだつたから、何でも歩きながら昏々してゐたに違ひないが、その眞黑な物は汽車だつた。
暗くて能くは見えなかつたが、其側をノソリ〳〵と默つて彷徨いてゐる者がある。
機關車にも車輛にも燈火が點いてゐなかつた。
唯蓋をした火口から朦朧した火影が薄赤く線路へ落[Pg 58]ちてゐたのみで。
「何ですか、これは?」と私は逡巡をした。
「汽車で行くのです、汽車で。
今の話をもう忘れましたか?」とドクトルがいふ。
寒い晚でドクトルは震へてゐる。
私もそれを見ると、身體中を擽られるやうな氣持で、矢張ガタガタ震へる。
「酷いなあ!私を見立つて連れて行くのは酷い」、と私は大聲にいふと、
「靜かに、靜かに」、とドクトルは私の腕を抑へた。
誰だか暗黑から、
[Pg 59]「此鹽梅ぢや有ツ丈の砲で一齋射擊をやつたつて、皆ビクともしないな。
敵も矢張寢込んでゐるだらうて。
今なら側へ行つて片端から引括れる。
己は今哨兵の側を通つて來たのだが、先生一寸人の面を見たばかりで、何とも言はん。
凝然としてゐた。
屹度矢張眠てゐたんだらう。
能くつんのめらないで居たものさ。」
と斯う言つて欠びをした。
で、さら〳〵と服の擦れる音のしたのは、大方伸をしたのだらう。
私は車輛へ攀ぢ登らうとして胸を其端に掛けると――忽ち夢に入つて了つた。
誰だか後から持上げる[Pg 60]やうにして載せて吳れたが、私は其人を蹴飛ばして、又寐こけた。
と、夢の中にこんな話が斷續に聞える。
「六ウエルスト行つてからだ。」
「忘れたのかランプを?」
「いや、彼奴は行くまい。」
「此處へ寄越せ。少し後へ退却らせた。
さうだ。」
汽車が居去る、何かガタ〳〵と鳴る。
安樂に橫になつて斯ういふ音を聽いてゐると、私は次第に目が覺めて來たが、ドクトルは反て寢入つてゐる。
其手を握つて見ると、死人の其のやうに頽然とし[Pg 61]て重たい。
汽車はもう動き出して、心持ち震動しながら、探足で行くやうに、用心しつゝ徐々と進む。
看護手の醫學生がランプに火を點すと、其光に車室の羽目や戶の黑い孔が照し出された。
憤々怒りながら、醫學生が、
「馬鹿々々しい! 今時分行つたつて仕樣がない。
貴方、先生が寢込まない中に覺して下さらんか?寢込ん了つたら、もう駄目です。
僕も覺えがある。」
二人して搖覺したら、ドクトルは起直つて不思議さうにキヨロ〳〵して又寢倒けやうとするのを、[Pg 62]どツこい、然うはさせなかつた。
「今頃ウオツトカを一杯キユウと引懸けるなんぞは惡くないな」、と醫學生がいふ。
で、コニヤクを一口づゝ飮むだら、睡氣は奇麗に去れて了つた。
黑々と大きい四角な戶が薄赤くなり、終に赤々と點し出されて、小山の向ふの空一杯に火影が深々と映る。
宛然眞夜中に日が出たやうだ。
「あれは遠方ですな。
二十ウエルストも離れた處だ。」
「寒い、」といつてドクトルは齒を切つた。
[Pg 63]學生は一寸戶の外を覗いて私を麾くから、覗いて見たら、地平線の處々微と赤く音もさせず鎭まり返つてゐる兵火の映りが、其から其へと連續して、宛然數十の太陽が一度に出るやうで、もう左程暗くもない。
遠方の山々は黑々と浪のうねつたやうに起伏して劃然浮出し、近くの物は皆しんめりとした寂かな光を受けて赤々と見える。
學生の面を見ても、矢張り血に染つたやうに赤く、此世の人の色でない。
血が飛散して空氣となり光となつたやうに思はれる。
「負傷者は餘程有りますか?」
[Pg 64]と聞くと、學生は手を掉つて、
「狂人が多いのです。
負傷者より狂人の方が多いのです。」
「本當の狂人が?」
「假の狂人といふのも無いでせう。」
と此方を振向いた學生の目差は凝然と据つて、物凄く、冷たい恐怖に充ちて、例の日射病で殪れた兵の目差其儘であつた。
「好加減な事を…」と面を反けると、
「其樣な事言つて、ドクトルも矢張り狂つてますぞ。
まあ、一寸御覽。」
[Pg 65]ドクトルには私逹の話が聞えないやうだつた。
土耳古人のやうに箕踞をかいて、ふら〳〵しながら、唇と指先を音もさせず顫はせてゐる其目差は矢張り凝と据り、茫然と鈍く腑が脫けたやうだつたが、
「寒い、」といつて微笑した。
「貴方がたは實に酷い人逹だ!」と私は大聲に言つて車室の隅へ行き、「何だつて私を引張り出したんです?」
誰も何とも言はなかつた。
空は深々と益々赤くなつて行く、それを學生は眺めてゐる。
頸窩の毛[Pg 66]の縮れてゐるのも若々しい。
之を觀てゐると、何故か繊細い女の手が此毛を弄つてゐるやうに思はれてならぬ。
それが又癪に觸つて、遂に學生迄が小面憎くなつて來て、面を見ると、胸がむかつく。
「君は何歲です?」といつても返答をしない。
振向きもしない。
ドクトルはふら〳〵しながら、
「寒い!」
學生は餘所を向いたまゝで、
「僕は何だ、僕は此世の何處かに町や家や大學が有ると思ふと…」
[Pg 67]ぷつりと言葉尻を切つて、これで言ひたい事を皆言ひ盡したやうに默つて了ふ。
ふと唐突に汽車が止つたので、私は羽目に衝突つた。
がや〳〵と人聲がする。
皆急いで外へ出て見た。
機關車の直ぐ前の線路の上に何か橫つてゐる。
大して大きな物でもなかつたが、それからヌツと足が一本出てゐた。
「負傷者ですか?」
「いや、戰死者です。
首無しだ。
しかし、こりや如何しても前の燈火を點けずにや居られん。
これぢや轢潰す。」
[Pg 68]足を突張つた物を線路外へ投げ出したら、虛空を踏むで駈出しでもするやうに、一寸宙で踏反つて、ポンと眞暗な溝の中へ陷つて了つた。
燈火が點く――と、もう機關車が眞黑に見える。
「おゝい!」と誰だか小聲で如何にも氣疎さうに呼ぶ。
今迄聞えなかつたのが不思議な位だが、何處ともなく方々に呻聲が聞える。
高低のない、何かを搔くやうな、幅のある丈不思議に悠然した――のを通り越して、もう如何なとなれと投げ出したやうな呻聲だ。
今迄隨分喚聲や呻聲を聞いた事もあ[Pg 69]るが、此樣なのを聞いた事がない。
朦朧と薄紅い地面には何も見えないから、呻くのは大地か、それとも出ぬ日の光に照された大空かと怪しまれる。
「四ウェルスト來た」、と機關士がいふ。
「彼聲は向ふの方でするのだ」、とドクトルは行手を指す。
學生は愕然として徐々此方を向き、
「何ですか彼聲は? いや、どうも、聽いてをられん!」
「ま、行かう。」
で、私逹は機關車の前に立つて步いて行つた。
銘々の影が繫がつて長く〳〵線路の上を這つたが、[Pg 70]影は黑くはない、薄朦朧と赤かった。
暗黑な空の端に、處々兵火がしんめりと音もさせず鎭まり返つて見える、それが映るからだ。
行程に例の物凄い、何が呻くとも知れぬ、奇怪な呻聲が愈々烈しくなり勝つて、血潮に赤い空氣が呻くのか、乃至天地が呻くのかとばかりに、薄氣味がわるい。
浮世には關繫なさそうに、奇しく、間斷なく呻く聲を聽けば、時としては野中の螽斯、單調で暑苦しさうに啼く、夏の野中の螽斯の聲に髣髴たることもある。
で、段々死骸が澤山になる。
ざツと檢めては線路外へ投出したが、皆もう何事にも頓着の[Pg 71]ない、物に動ぜぬ、頽然とした死骸で、その轉がつてゐた跡には、地に吮込まれて血潮が黑く膩ぎつて汚點のやうに見える。
初めは數を讀むでゐたが、其中に間違へたから、それなりにして了つた。
死骸は隨分有つた、――夜氣水の如く、其處ら一面押なべて呻聲だらけの、氣味の惡い夜にしてから、餘り有り過る程に有つた。
「何だあれは?」とドクトルが叫んで、誰を嚇す積なのか、拳を固めて揮つて示せて、「一寸――聽いて御覽…」
もう頓て五ウェルストになる。
呻聲は愈々判然[Pg 72]と際立つて來て、もう此聲を出す引歪めた口元も眼に見えるやうな心地がする。
薄紅い靄は此世の物とも覺えぬ怪しき底光を含んで眼も綾に迷ふ中へ、私逹が恐る〳〵看入つた時、殆ど足元の線路の下で、救を呼ぶが如く、泣くが如く、高く呻く聲がする。
聲の主の負傷者は直ぐ見付かつたが、手提の光に照し出された其面を見れば、面中が眼ばかりかと思はれる程大きな眼だつた。
呻き止んで私逹の面や手提を旋次に看る其眼の中には、人影火影を認めて喜んで狂せんと[Pg 73]する色の外に、尙ほそれが直ぐ幻と消えやうかと、畏れて狂せんとする色も動いてゐた。
或は斯う火を翳して屈み掛つた人の姿が、血塗の夢の中にもや〳〵となつた事が、既う幾度も有るのかも知れぬ。
尙ほ進まんとして、忽ち又二人負傷者に出遭つた。
一人は線路の上に倒れてゐて、今一人は溝の中で呻いてゐた。
此等を收容する時、ドクトルは怒に身を戰かせて、此方を向き、
「如何です?」
といつて面を反けた。
數步すると、向ふから輕傷者が、片手で片手を支へて、一人で步いて來た。
仰向いて來て私逹に衝當りさうだつたから、道を[Pg 74]開いて通してやつたが、一向氣が附かぬらしい。
恐らく私逹の姿が眼へ入らなかつたのであらう。
機關車の前でト立止つて直ぐと身を轉開して其橫へ出て、今度は車輛に沿いて行く。
「こら、お前その汽車に乗れ!」とドクトルが呼び掛けたが、返答もしなかつた。
此等を手始めとして、淺ましい姿が頓て線路の上にも側にも頻に出遭つて、深々と赤く兵火の照反した野は、魂でも入つたやうに、一面にざわつき出し、大叫喚、號泣、呪咀、呻吟の聲がクワツと起る。
隆然と高くなつた黑い物の影が蠢めきの[Pg 75]た打廻る所を見れば、まだ夢ながら籠を出された蟹のやうに、手足を張つて、可怪げな形をして、どたりとして動き得ぬのもあれば、しどろに覺束なく藻搔くのもあつて、どれも〳〵人らしくない。
或は默つて言ひなり次第になるのもある、或は呻き、泣き、惡體吐いて、この夜の血羶く人間の生死に與らぬらしい光景も、かうした深傷を負うたのも、死駭の中に獨り取殘されてゐるのも、皆我我の所爲でも有るやうに、救はうとする我々を嫉視するのもある。
車室にはもう負傷者の容れ塲がなく、私逹の着てゐる服までグッチョリ血に濕れて、[Pg 76]宛然血雨の中に立盡してゐたやうになつたのに、まだ負傷者を運んで來て、蘇つたやうに見える野は何時までも物凄く蠢めき渡る。
或者は自分も這ひ寄り、或者はふら〳〵として倒けては起上り〳〵來る。
中にも一人殆ど走つて來たのがあつた。
と、見ると、面はひしやげて、一つ殘つた眼ばかりが物凄いすさまじい光を湛へ湯上りの人のやうに、殆ど一糸をも着けてゐない。
私を衝退けて、一つ眼でドクトルを探し出し、呀といふ間に無手と左手に胸倉を取つて、
「うぬ…者面打曲げるぞ!」
[Pg 77]と、かう一つ喚いて置いて、それから小突きながら、悠々と、其癖口汚なく毒づく。
「貴樣の面をグワンとやるのだ。
このド畜生め!」
ドクトルは振放して、ヤツと立向ひ、息を塞らせ〳〵罵つた。
「野郞、軍法會議に掛けるぞ! 監倉だぞ! 人の職務の邪魔しやがつて… この野郞! この畜生!」
中へ入つて引分けたが、引分けられても兵は尙ほ罵り止まず、久らくは唯、
「こン畜生! 者面打曲げるぞ!」
[Pg 78]とばかり。
私はもう耐へられなくなつたから、一服して休まうと、片脇へ退いた。
手首の血はパサ〳〵に乾いて、黑手袋を穿めたやうに、指もぎこちなく、マッチやシガレットをつい取落す。
斯く喫み出すと、烟草の烟も平常のやうにもなく變に見えて、其味も全く異つてゐる。
こんな烟草は後にも前にも喫んだ事がない。
其時學生の看護手が側へ來た。
一緒に汽車に乗つて來た彼男だのに、何だか數年前に逢つた人のやうに思はれて、さて何處で逢つたかゞ憶ひ出せない。
學生は直と踵を地に着けて[Pg 79]行進の步調で步いて來たが、私の身體越しに何處ともなく遠くの空を眺めて、
「これだのに皆寢てゐるのだ。」
と何だか落着拂[Pg 80]つてゐる。
私は自分の事のやうに憤然となつて、
「だつて、君、十日も獅子のやうに奮鬪したのだもの、其筈ぢやないか?」
「これだのに皆寢てゐるのだ。」
と學生は私の身體越しに空を眺めながら、反覆していつて、さて私の面を覗き込むやうにして、人差指を鼻の先で揮り〳〵、矢張膠もなく落着拂つた調子で、
「能く聽いて置きなさい、能く。」
「何を?」
學生は愈々面を覗き込むで、理由ありさうに人差指を揮り〳〵、辻褄の合つた話の積らしく、矢張り一つ事をいふ。
「能く聽いて置きなさい、能く。
皆にも然う言つて貰ひたいのだ。」
佶と私を見据ゑたまゝ、も一度人差指を揮つて見せて、ピストルを取出すや、ドンと一發我と我顳顬へ擊込んだ。
けれども私は少しも驚かず、平[Pg 81]氣でシガレットを左の手に持易へて、指で其創口を觸つて見て、汽車の在る方へ行つた。
「あの學生はピストルで自殺ましたぞ。尤もまだ息はあるやうだが…」
と私がドクトルにいふと、ドクトルは私と我頭に武者振り附いて、唸るやうに、
「馬鹿め!… もう汽車は一杯だ。
彼處にも今に自殺さうなのが一人居るのだ。
私だつて然うだ」、と忌々しさうに叱るやうに言つて、「自殺かねない。
全く! だから、貴方は――步いて行つて貰ひませう。
もう載せる餘裕がない。其が不服なら、吿[Pg 82]發なさい。」
と喚き〳〵餘所を向いて了つた。
今に自殺さうだといふ男の側へ行つて見たら、それは看護手で矢張學生出らしかつた。
立ちながら車輛の羽目へ額を押當てゝ、肩で浪を打たせて泣いてゐる。
「泣くな〳〵」、と私は其浪を打つ肩へ手を遣つた。
が、振向きもせず、返答もせず、泣いてゐる。
看ると、頸窩が自殺した學生のそれのやうに若々しく、矢張り無氣味だ。
酔漢が汚い物でも吐いてるやうに、意久地なく兩足を踏擴けてゐたが、首[Pg 83]筋の血に塗れてゐたのは大方手で抑へたからだらう。
「泣くなと言へば!」と私は癇癪聲を振立てた。
と、其看護手は蹌踉と車輛を離れて、投首して、老人のやうに背を圓くし、私逹を棄てゝ置いて、何處ともなく闇黑の中へ行く。
何故だか、私も其跟に隨いて、汽車を後にして、何處を目的ともなく、久らく二人で步いて行つた。看護手は泣いてゐるらしかつたが、私も何だか佗しくなつて、泣出し度やうな氣持がする。
「一寸待て!」と大聲に言つて私は立止まつた。
[Pg 84]が、看護手は背を圓くして、重たさうな足取で行く。
肩を窄めて足を引摺り〳〵行く姿は、宛然の老人だ。
軈て明く見えても照りもせぬ薄紅い靄の中に其姿は消えて、私一人になつて了つた。
左手に遠く朦朧として一連の火影が流れるやうに過ぎて行く。
汽車が戾つて行くのだ。
私は死んだ者死かゝつた者の中に一人取殘されたのだが、死んだ者死かゝつた者で收容漏になつた者はまだ何位あつたか知れぬ。
近くは寂然としてゴソリともいはぬけれど、離れては野に魂の有るやうにザワ〳〵と蠢めく――と、さ、一人だから思はれた[Pg 85]のかも知れぬ。
兎も角も呻吟の聲は絕えぬ。
子供の泣くやうな、夥多の子犬が棄てられて凍え死なむとして啼くやうな、繊細い、便りない聲で地上一面に擴がつて、之を聽いて居ると、銳い〳〵際限もない氷の針を惱に突徹されて、そろり〳〵と拔差されるやうな氣持がして…。
(斷篇第六)
…それは味方であつた。
最後の一ケ月は命令も計畫も齟齬ひ、敵も味方も行動が紛れ〳〵て妙な工合であつたが、然ういふ中でも敵襲のある事は[Pg 86]豫期してゐた。
敵といふのは即ち第四軍團である。
で、味方は既に攻擊準備を終つた時、誰だか雙眼鏡で見ると、味方の制服を着けてゐるのが判然見えると云ひ出して、十分後には其疑ひが霽れ、愈愈味方に違ひないとなると、皆ホツとして嬉しく思つた。
先方もそれと心附いた體で、悠々と近づいて來る。
その落着いた處に、相手も矢張り思掛けぬ邂逅を喜んで微笑してゐる俤が浮いて見える。
で、敵が發砲した時には、何の事だか暫くは合點が行かずに、榴霰彈や銃丸が霰の如く降り注ぎ[Pg 87]瞬く間に死傷者の山を築く中で、私逹は矢張莞爾莞爾してゐた。
誰だか敵だと叫ぶ。
敵と聞くと、――私は能く覺えてゐるが、――成程相手は敵で制服も敵の制服、味方のとは違ふと、皆氣が附いた。
で、直ぐさま應戰する。
この變な戰鬪が始まつてから、十分も經つた頃であらう、私は兩足を捥れて、氣が附いた時には、もう病舎に居て、手術も濟むだ後であつた。
戰鬪の結果を人に聽いて見ると、皆取留めぬ氣休めばかり言つてゐるが、察する所敗北したに違ひない。
それにしても、斯うなれば私はもう後送[Pg 88]される、兎も角も命を繫ぎ留めた、壽命の有らむ限り長生が出來る、と思ふと、足無しの身にも嬉しかつた。
が、一週後に漸く詳しい事が分ると、又胡亂になつて、曾て覺えぬ奇異な恐怖を更に心に懷くやうになつた。
矢張り味方であつたらしい。
味方が味方の砲で擊出した味方の破裂彈で私は足を捥れたのだ。
如何して此樣な間違をしたのか、誰にも分らぬ。
何だか妙な事になつて如何してか目が眩むで、同じ軍に屬する二個の聯隊が一ウエルストを隔てゝ相對して、相手は敵と十分に思込みながら、丸一時[Pg 89]間も同志打してゐたのだ。
皆成るたけ其噂をするのを避けて、すれば曖昧の事ばかり言ふ。
何よりも不思議なのは、その噂をしても、大抵は今だに同志打とは思つてゐない。
いや、寧ろ同志打は認める、唯最初から同志打したのでない、最初は實際敵を相手にしてゐたのだが、全戰線の紛糾つた紛れに、其敵は何處へか消えて、我々は遂に味方の彈丸を被つたのだ、と思つてゐる。
中には隱さず然うと明言して、事實だと思ひ、事實らしいと思ふ程の事を列べて、具さに其次第を語る者もある。
私も如何して此樣な間違が起つたのか、今に[Pg 90]なつてもまだ確乎とした事が言へぬ。
最初見た時には我軍の赤線入りの軍服に紛れなかつたのが、其後見たら確に黃筋の敵の軍服になつてゐたのだ。
唯如何してか間もなく皆此間違を忘れて、眞に敵と鬪つたやうに思込んで了つたから、僞る氣もなく其通りを通信に書いて送った者が多い。
それは歸國後に私も讀んで知つてゐる。
で、最初は此時負傷した我々に向ふと、世間の人の樣子が少し妙で、何となく他の負傷者程に同情を寄せて吳れぬらしかつたが、其區別も直き消えて了つた。
唯之に類した事が其後も有つたし、又實際敵方にも某隊と[Pg 91]某隊とが夜中同志打をして殆ど全滅したといふ事實も有つて見れば、我々も矢張間違つて同志打したといふに不思議はないと思ふ。
私の手術を受けたドクトルはヨードホルムや烟草の烟や石炭酸の香のする、いつ見ても黃味を帶びた白い斑髭の中で莞爾莞爾してゐる、乾枯びたやうな骨張つた老人であつたが、眼を細くして云ふには、
「貴方は其中後送されやうが、仕合せな事だ。
どうも何だか變な鹽梅ですからな。」
「如何してゞす?」
[Pg 92]「如何してといふ事もないが、どうも變な鹽梅ですわい。
私逹の行つた時分には此樣に拗れた事はなかつた。」
二十餘年前最後の歐洲戰役に從軍した人で、能く其頃の噂をしては得意になる。
が、今度の戰爭は理由が分らぬとか云つて、始終懸念さうな樣子でゐるのだ。
「どうも變ですわい、」と溜息をして、顏を顰めて烟草の烟の中に雲隱れをしたが、「成らう事なら、私も歸りたい。」
と、人の面を覗き込むやうにして、黃ろい烟脂[Pg 93]だらけの髭越しに、
「ま、見てゐて御覽、今に大變な事になつて、一人だつて生きちや環れなくなるから。
私始め皆討れる。」
と老眼を私の面近くに据ゑて、此人も矢張りキョトンとする。
之を觀ると、百千の建物が一時に崩れ懸つた程、私は堪らなく恐ろしくなつて、慄然として、小聲で、
「赤い笑だ。」
此意味の分つたのは此人が始めてゞあつた。
急に首肯いて、
[Pg 94]「全くだ。
赤い笑だ。」
で、直と私に寄添つて、きよろ〳〵しながら年寄の癖として諒々と囁くのだが、囁く度に先窄まりの半白の頰髯が搖く。
「貴方は直き後送されるのだから、お話するが、何ですか、貴方は瘋癲病院で狂人が喧嘩をするのを見た事が有りますか? 無い? 私は有る。
喧嘩をする所は矢張無病の人のやうだ。
ね、無病の人のやうだ。」
と幾度か理由ありさうに此文句を反覆す。
「で、如何したといふのです?」
[Pg 95]と私も矢張恟々しながら聲を竊めて聞くと、
「如何したといふのでもないが、矢張無病の人のやうだ。」
「赤い笑だ。」
「水を打掛けて引分るのです。」
雨に度肝を拔かれた事を憶出して、私は癪に觸つたから、
「貴方は氣が狂つたンだ!」
「が、貴方以上ぢやない。
要するに、以上ぢやない。」
と、尖つた老の膝を抱いて、ヒゝと笑つた。
こ[Pg 96]の厭な意外な笑聲の名殘を、ばさ〳〵に乾いた唇にまだ留めたまゝ、肩越に人の面を尻眼に掛けて、幾度か擽ぐつたい目交をする。
何か恐ろしく可笑しな事があるが、それを知つてゐる者は二人切で外には誰も知り手が無いと云つた調子だ。
それから魔術師が手品を使ふやうに、大業に高々と手を擧げて、スウと輕く其を卸して、窃と二本指で夜着の、切斷しなかつたら私の足の在るべき所を抑へて、
「この意味が分りますか?」
とひそ〳〵と聞く。
更に又大業に理由有りさう[Pg 97]に負傷者が幾側かに分れて寢臺に臥てゐるのを指して、また、
「この意味が說明出來ますか?」
「負傷者でさ。」
「負傷者」、と反響のやうに反覆して、「足もない、腕もない、腹には風穴を明けられて、胸を微塵に碎かれて、眼球を抉り取られてゐる――この意味が分つてゐるのですな? 宜しい。
ぢや、この意味も分るでせう?」
と手を突いて、年齡に似合はず飜然と身輕に逆立をして、足で釣合を取つてゐる。
白の治療服は[Pg 98]捲れて、面は眞紅に充血したが、逆になつた變な目色で、喰入るやうに凝と私の面を視ながら、辛と、途切れ〳〵に、
「この意味も…矢張り…分りますか?」
「もう好加減になさい。
止さんと、僕は聲を立てるから。」
と私は怯えた小聲で云つた。
ドクトルは飜然と足を卸して、自然の位置に復し、更に私の寢臺の側に坐つて、フウと息をしながら、我一人心得顏に、
「誰にも此意味が分らない。」
[Pg 99]「昨日又砲戰が有つたさうですな?」
「有りました。
一昨日も有つた、」とドクトルは其通りといふ意を頷いて示せる。
私は欝々して、
「あゝ、歸りたい! ね、ドクトル、私はもう歸りたい。
到底も此樣な處にや居られん。
もう私にや樂しい家庭が有るとも思へなくなりさうだ。」
ドクトルは何か考へて居て返答をしなかつた。
で、私は泣出した。
「あゝ、私には足が無い。
彼樣に自轉車に乗つたり、步いたり、駈けたりするのが好きだつたが、[Pg 100]もう足が無い。
右の膝へ坊を載つけて搖ぶると、坊は能く笑つたツけが、もう此樣なに成つちや…あゝ實に酷い奴等だ! これぢや歸つたつて、仕方がない。
まだ僅た三十だのに… 實に酷い奴等だ!」
と懷かしい足、早い逹者な足を偲んで、私は直泣きに泣いた。
誰が人の足を持つて行つた、如何なる權利が有つて持つて行つた!ドクトルは餘所を見ながら、
「斯ういふ事がある。
昨日見てゐたら、氣違ひの兵が此方の陣地へ紛れ込んで來た。
敵の兵なんで[Pg 101]す。
殆ど丸裸で、散々打のめされて來た樣子で、引搔傷だらけだ。
宿無し犬か何ぞのやうにガツ〳〵してゐる。
頭髮や髯が蓬々と生えて、尤もこれはお互の事だが、野蠻人か、此世開けたての人間か、乃至猿かといつたやうな奴だ。
手を揮るやら、身を揉むやら、歌を唱つたり、大聲に喚いたりして、兎角喧嘩を賣りたがる。
で、物を喰はしてから、元の野原へ逐返して了つたが、こんな連中は然うでもする外仕方がないですからな。
あゝいふ連中だ、每日每晚ぼろ〳〵した薄氣味の惡い幽靈のやうな風をして、山の中を彷徨き廻るのは。
雨風に[Pg 102]曝され放題曝されて、道も無い處を宛もなく往つたり來たりして、手を揮る、笑ふ、喚く、歌う。
こんなのが二人出遭へば喧嘩をする――それとも出遭つても氣が附かずに行違つて了ふかも知れんが。
一體何を喰つて生きてるのか分らん。
恐らく何も喰はずに居るのぢやないかと思はれるが、若し何か喰つてゐるなら、死骸だ、――每晚夜ツぴて山で咬合つて唁々吠立てる、あの喰ひ太つた野良犬と一緖になつて、死骸を喰つてるのだ。
每晚、嵐に目を覺した鳥か、醜ない恰好をした蛾のやうに、火に集つて來る。
寒さ凌ぎに篝でも焚けば、[Pg 103]三十分と經たぬ中に、ぼろ〳〵した風の、凄い、凍け猿のやうな奴がガヤ〳〵と寄つて來る。
敵かと思つて其に發砲することもあるが、時としては其奴等が譯も分らん事をワイ〳〵いふその聲に脅かされるので、肝癪を起して故意と遣付ける事もある…」
「あゝ、歸りたい!」と私は大聲に言つて耳を塞いだが、凄い話が綿を隔てゝ聞くやうに、物に籠つて隱々と、散々惱まされた惱髓に更に響いて來る。
「かういふ連中は大分居る。
或は谷底に落ちたり、[Pg 104]或は正氣の健全な人の爲に設けた狼穽に陷つたり、或は戰塲に取殘された鐵條網の齒や杭の先に引掛つたりして、一度に何百となく死ぬ。
進退に方のある正氣の戰鬪に紛れ込むで、いつも先頭に立つて奮鬪する所は、如何にも勇士のやうだが、其代り味方に刄向ふことも珍らしくない。
私は此連中が氣に入つた。
私も今は唯氣が違ひかゝつてゐるばかりだから、斯うして坐つて貴方と話をしてゐるのだが、これで全然狂つたとなると、私は野へ出ますな。
野へ出て大に叫ぶ。
大に叫んで其勇敢な可怕しいといふことを知らぬ武士逹を集めて、[Pg 105]而して全世界に向つて宣戰する。
樂隊を先に立てて、軍歌を唱つて、欣〻として町や村へ乗込む。
我々の足跡到る處盡く眞紅になる、總ての物が火輪の如く輪を舞つて踊ををどる。
生殘つた者が馳加つて、我精銳は雪崩のやうに進めば進む程人數が增して、而して遂に此世界を一掃するのだ。
何だと? 人を殺してはならん? 民家を焚くな?掠奪するな? 誰が其樣な事をいふ?」
と狂つたドクトルはもう絕叫するのであつた。
胸部腹部を擊碎かれた者、眼球を抉り出された者、乃至足を切斷された者の、今迄眠つてゐたやうな[Pg 106]創の傷みが、此絕叫の聲に呼覺されて疼き出す。
幅のある、鍋底でも搔くやうな、泣くやうな唸聲が病舎内に充ち渡つて、靑い、黃ろい、疲れ切つた、或は眼の無い、或は地獄戾りかと思はれる程痛か形を損じた人の面が八方から此方を向く。
此等が呻きつゝ耳を傾ける外には、開放しの戶口から漠々と此世を掩ふ眞黑な暗黑が窃と内を覗き込む。
氣の狂つた老人は兩手を伸べて更に絕叫した、
「誰が其樣な事を言ふ? 何の、我々は敢て殺す、敢て焚く、掠奪する。
我々は屈托の無い愉快な勇士の群だ。
敵の建物でも、大學でも、博物館でも、[Pg 107]手當り次第に破壞する。而して其破壞の跡で、火の笑に充ちた浮かれ軍士の我々が踊ををどるのだ。
瘋癲病院を我々の本國と稱してからに、まだ氣の狂はぬ奴等を我敵と認め、あべこべに之を狂人と呼ぶのだ。
而して百戰百勝の、いつも悅喜滿面の英雄の此方が一天萬乗の君として此世界に臨む時、如何にも心ゆくばかりの笑聲が天地の間に轟き渡るのだ!」
「それが赤い笑だ!」と私は大聲出してドクトルの話を奪つて、「助けて吳れェ! また赤い笑聲が聞える!」
[Pg 108]「諸君!」とドクトルは不具の幽靈が呻聲を揚げてゐるやうな人逹に向つて、「諸君! 頓て我々の世となれば、月も赤くなる、日も赤くなる、毛物の毛も赤い愉快な毛となる。
餘り白いと、餘り白いとな、それ、その皮を引剝いでやらうといふものだ… 諸君は血を飮むだことが有るか? 血は少し黏々する物だ、少し生溫かな物だ、其代り眞紅な物だ。
而して血が笑ふと、眞紅な愉快な笑聲が聞る!…
(斷篇第七)
[Pg 109]ひどい! 亂暴な事をする。
赤十字は神聖で、世界何れの國民も之に對つて敬意を拂はん者はない。
何も兵を載せては居まいし、何の手出しも出來ぬ負傷者の乗つた列車という事は敵も承知なら、地雷を伏せてある事は警告すべき筈でないか? 可哀さうに旣う皆故鄉の夢を見てゐたらうに…
(斷篇第八)
…中央に湯沸し、正銘紛れのない湯沸し、それが湯氣を噴く所は機關車のやうだ。
ひどい湯氣でランプのホヤまで少し曇つた位で、茶碗も矢張昔[Pg 110]しながらの、外は藍色の、中は白い、中々見事な茶碗で、結婚の時の貰ひ物だ。
贈り主は妻の姉妹だが、氣立の好い立派な婦人だ。
「皆まだ滿足でゐるかい?」と奇麗な銀製の匙で茶碗の砂糖を搔廻しながら、私が心元なさゝうに聞くと、
「あの、一つ壞れましたの」、と妻は何氣なく答へた。
妻は此時湯沸の龍頭を捻つてゐたが、湯が見事にスウと迸る。
私は高笑をした。
弟が、
[Pg 111]「何が可笑しいのです?」
「なに、何でもない。
それよりか、最う一度書齋へ連れてツて吳れ。
何も勇士の爲だ、面倒見て吳れ! 留守中樂をしてゐたらうが、もう駄目だぞ。
これからは己がウンと使つてやる。
」で、無論常談に、友よ、急がむ、戰に、勇みて敵に急がむ…と歌ひ出した。
皆私の意を悟つて微笑したが、妻だけは俯向いて繍の有る奇麗な布巾で茶碗を拭いてゐた。
書齋へ行くと、水色の壁紙や、靑い笠を被つたランプや、水差の乗つた小さなテーブルが又目に付く。
[Pg 112]水差は少し塵に汚れてゐた。
私は浮立つて、
「あの水差の水を少し…」
「今飮むだばかりぢや有りませんか。」
「まあ、好い、注いで吳れ。
それから、お前な」、と妻に向つて、「坊を連れて少し次の間へ行つてゝ吳れんか。
賴む。」
で、私はグビリ〳〵と、樂しみながら、水を飮むだ。
次の間には妻と坊が居るのだが、姿は見えない。
「もう宜しい。
さあ、此方へお出で。
だが、もう[Pg 113]晚いのに何故坊は寢ないのだ?」
「お歸ンなすつたのが嬉しいのですよ。
坊や、お父さんの側へお出で。」
しかし坊は泣出して母の裾に隱れた。
「何故坊は泣くのだらう?」と私はうろ〳〵と視廻して、「一體お前逹は何故其樣な蒼い面をして默つてるのだ? 影法師のやうに、始終人の跟にばかり隨いて來る…」
弟は高笑をして、
「默つてやしません。」
妹も合槌を打つて、
[Pg 114]「お饒舌の仕通しよ。」
「どれ、私はお夜食の仕度に掛らう」、と母は倉皇と出て行つた。
「いや、默つてゐる」、と私はふツと其に相違ないと思込むで、「朝から一言だつてお前逹の物を言ふのを聞いた事がない。
己ばかり饒舌つたり、笑つたりして喜んでるのだ。
己が歸つて來ても喜んで吳れんのか? 何故皆成る丈己の顏を見ぬやうにするのだ? 己は其樣に變つたか? そりや變りもしたらうが…鏡が一つも見えんぢやないか? 皆片付けて了つたのか? 鏡を持つて來て吳れ。」
[Pg 115]「は、今直ぐ持つて參りますよ」、と妻はいつて、出て行つたぎり中々戾らんで、鏡は小間使が持つて來た。
面を映して見ると、汽車に乗つてゐた時停車塲に居た時の矢張りあの面で、少し老けたやうだが、格別變つた事もない。
「些とも變つてやせんぢやないか?」
と澄していふと、傍の者は大層喜んだ。
何故だか皆私が大聲を立てゝ氣絕でもしさうに思つてゐたらしい。
妹の笑聲は段々高くなつて、狼狽てゝ出て行つて了つたが、弟は狼狽した樣子もなく、落着拂つ[Pg 116]て、
「さう、そんなに變つちやゐません。
たゞ少し禿げたばかりで。」
「首が滿足に附いてるのが見付け物だと思はなきやならん」、と私は平氣で答へて、「それはさうと、皆何處へ行つたのだらう――一人起ち二人起ちして。
お前もう少し家の中を引張り廻して吳れんか。
實に此椅子は便利だ。
全で音がせん。
幾ら出した?己も旣う斯うなりや仕方がない、金に糸目を附けんで此樣な義足を買はう、もツと好いのを…や、自轉車が!…」
[Pg 117]壁に掛つてゐる。
空氣が拔いてあるから、護謨輪は萎びてゐたが、まだ眞新しだ。
後輪の護謨に少し泥が干乾びて附いてるのは一番最後に乗つた時の泥だ。
弟は默つて椅子を推すのを止めてゐた。
私には其默つてゐる意も立止つてゐる意も讀めたから、不機嫌な面をして、
「己の方の聯隊で生殘つた將校は四人外ない。
己は非常に幸運だ…自轉車はお前に與らう。
明日になつたら、お前の部屋へ持つてつとくが好い。」
「さうですか。
ぢや、貰つときませう」、と弟は素直に言ふ事を聽いて、「さうですとも、兄さんは幸[Pg 118]運だ。
市内でも人口の半分は忌中の人だそうですからな。
そりや足は何だけれど…」
「さうとも。
己は郵便配逹ぢやなしな。」
弟はふと立止まつて、
「如何したんです? 首が大層震へるぢや有りませんか?」
「なに、何でもない。
直き癒つ了ふ、醫者も然う言つてゐた。」
「手も震へますな?」
「う、手も震へる。
なに、直き癒つ了ふ。
まあ、推して吳れ。
一ツ處に居ると饜きて不好。」
[Pg 119]家内の者が皆佛頂面をしてゐるので、私も不愉快でならなかつたが、でも床を敷る段になると、又嬉しくなつて來た。
結構な寢臺だ。
四年前結婚間際に買つた寢臺の上に本式の床を敷つて吳れる。
淸いシーツを敷いて、それから枕を据ゑて、夜着を被ける――その事々しい爲體を見てゐると、可笑しくて泪が零れる。
妻に對つて、
「さ、着物を脫がせて吳れ。
それから臥かすのだ。
あゝ、好い心持だ!」
「は、只今。」
「早く!」
「は、只今。」
[Pg 120]「如何したンだ?」
「は、只今。」
妻は私の背後の化粧臺の側に立つてゐた。
其方を振向いて見やうとしたけれど、叶はない。
と、不意に妻が大きな聲で叫んだ。
此樣な聲は戰塲でなければ出ないといふ程の大きな聲で叫んだ、
「情けないぢや有りませんか!」
而して私に飛付いたまゝ、其處へ倒れて、有もせぬ私の膝へ面を埋めやうとして、慄然としたや[Pg 121]うに身を引いて、又縋り付いて、少しばかり殘つた腿に接吻しながら、泣きながら、
「あんな滿足な身體だつたのに!…まだ三十ぢや有りませんか。
若い立派な方だつたのに、此樣なになつて了つて、情けないぢや有りませんか! 本當に殘酷な人逹だ。
貴方を此樣なにすれば、何處が好いのでせう? 何の必要が有つたのでせう? 優しい貴郞を此樣な姿にして了つて…私ももうもう情けなくツて…」
此泣聲を聞付けて皆駈けて來た。
母も、妹も、乳母も皆駈付けて來て、皆泣いた、何だか言つて、[Pg 122]私の足の處に轉がつて、皆大泣きに泣いた。
弟は部屋の入口に蒼白い面をして立つてゐたが、是も頤をわな〳〵顫はせて、金切り聲を振絞つて、
「其樣なに泣かれると、私も氣違ひになりさうだ――氣違ひに!」
母は母で私の椅子の側にひれ伏してゐたが、もう大きな聲も出ないと見えて、纔かに皺嗄れ聲を立てゝ、頭を車輪に打當て〳〵泣いてゐた。
で、其處に枕を据ゑて夜着を掛けた淸潔な寢臺が見える。
四年前結婚間際に買つた寢臺だ…
[Pg 123]
(斷篇第九)
…私は湯槽に涵つてゐた。
弟は起つたり、居たり。
タオルや石鹼を取上げて、近々と近視眼の側へ持つて行つたり、又舊へ戾したりして、狹い部屋の中でまご〳〵してゐたが、頓て壁に對つて、指先で壁土を弄りながら、
「ま、考へて御覽なさい。
數十年數百年の間、慈悲だの、分別だの、論理だのといふ事を敎へ込んで、人に意識を與へた以上は、――何はさて措いて、意識を與へた以上はですな、其丈の應報が屹[Pg 124]度無けりやならん。
そりや殘忍になれんではない。
無感覺になつて、血を見ても、淚を見ても、人の苦しむのを見ても、平氣でゐるやうに、爲らうとすればなれる。
例えば、牛や豚の屠殺者、或種の醫者、或は軍人なぞが其でさ。
が、しかし、一旦眞理を認識した者が眞理を棄てゝ了ふ事が出來るでせうか? 私は出來んと思ふ。
子供の時から動物を苦めるな、情を知れ、と敎へられてゐるのです。
讀んだ書物といふ書物には皆然う書いてあるのです。
だから今度の戰爭に惱まされる人を見ると、私は氣の毒で〳〵耐らない。
私は戰爭を呪咀[Pg 125]する。
が、段々日數の經つに隨れ、人の死ぬのや、苦しむだり血を流したりするのが珍らしくなくなつて來ると、不斷は感覺が鈍つたやうな、道義心が麻痺したやうな鹽梅で、餘程何か强い刺戟でも受けなきや、胸に應へない。
が、それでも、戰爭其物とは如何しても折合ふ事が出來ん。
元來が沒常識の事を理解する――そんな事は私の頭では出來ない。
百萬の人が一所に集つて、一々法に依つて進退して命を取合ふ、而して皆同じやうに苦しい思をして、同じやうに不幸な身の上になる、――それに何の意味が有ります? 全で狂人の所[Pg 126]爲ぢや有りませんか?」
と弟は此方を振向いて、近視の、少し愛度氣ない眼で、返答でも催促するやうに、凝と私の面を視た。
「赤い笑さ」、と私は快活に言つて、ボシャリ〳〵とやつてゐた。
「實はね」、と弟は親しらしく冷たい手を私の肩へ載せると、素肌で濡れてゐたので、吃驚したやうに、手を引込めて、「實はね、私はどうも氣違ひになりさうで、心配でならんのです。
私には一體如何した事だか、事由が分らん。
分らんで、怖ろし[Pg 127]い。
誰か事由を言つて聽かせて吳れると好いのだが、誰一人其の出來る者がない。
兄さんは戰爭へ出て實地を目擊して來なすつたんだ。
事由を話して下さい。」
「そんな事己は知らん!」
と戯言らしく言つてボシャリ〳〵やつてゐると、弟は悲しさうに、
「矢張分らん? ぢや、私はもう誰の力も借りられないのだ。
酷いなア! 私にやもう仕て好い事と惡い事の見界も附かない、――何が分別だやら、無分別だやら、私が今甘へる風で、徐と兄さんの[Pg 128]咽喉に手を掛けて、グツと締上げたら、如何だらう?」
「馬鹿を言つてる! 誰が其樣な眞似をする奴が有るもんか!」
弟は冷たい手を揉むで、微かに笑つて、
「兄さんが彼地に居る頃、私は夜寢ない事が能く有つた、――眼が合はないで。
すると、變な氣になつて、斧でもつて阿母さんも、妹も、下女も、犬も、皆叩殺して了はうかと思ふ。
無論然う思ふばかりで、其樣な事は行る氣遣ひはないが…」
「行られちや耐らん」、と私は莞爾して、ボシャリ[Pg 129]ボシャリとやつてゐると、
「それから又ナイフだ。
總て銳利な晃々する物があると、危險でならん。
若し私がナイフを持つたら、屹度人を斬りさうな氣がする。
だつて、若し銳利なナイフだつたら、斬りたくなるに不思議はないでせう?」
「尤な次第だ。
お前も餘程變物だな。もう少し湯を注して吳れ。」
弟は龍頭を捻つて、湯を注してから、また、
「それから又群衆だ。
人が大勢集つてると、私は心配でならん。
晚に外で大きな聲でもして騷々し[Pg 130]いと、私は愕然として、始まつたのぢやないかと思ふ、斬合が。
人が二三人立話をしてゐる。
話の筋が分らないと、今にも其人逹が大聲立てゝ飛蒐つて斬合が始まりさうに思はれてならん。
それに貴兄も御存じだらうが」、と仔細ありげに私の耳の側へ顏を持つて來て、「新聞を見ると、人殺しの記事だらけでせう? それが皆變な人殺しばかりだ。
十人十種といふけれど、虛です。
人の良智といふものは一つで、その良智が段々曇り出したのです。
まあ、私の頭を觸つて御覽、非常に熱いから。
全で火のやうだ。
けれども此奴が時とすると冷たく[Pg 131]なつて、頭の中が總て凍つたやうな、かじけたやうな、怖ろしい、コチ〳〵の、氷のやうな物になつて了ふ事も有るのです。
私は如何しても氣違ひになりさうだ。
笑ひ事ぢやない、本當に氣違ひになりさうだ。
もう十五分になりますよ。
好加減にお出なさらんと…」
「もう少し。
もう一分ばかり。」
昔のやうに湯槽に涵つて、弟の言ふ事には心を留めずに、耳に慣れた其聲を聽きながら、少し綠靑を吹いた銅の龍頭だの、見慣れた壁の模樣だの、棚に順好く列べた寫眞機械だのと、古い馴染のあ[Pg 132]る、有觸れた、平凡の物ばかりだけれど、之を見てゐると、何とも言へず心持が好い。
又寫眞硏究を始めて、平凡な隱かな景を寫したり、坊の步く所や笑ふ所や、惡戯する所を撮つたりする。
足無しでも是なら出來る。
文壇の名著や、思想界の新しい功程や、美や、平和を題目にして文を作るのだ。
「ほツ、ほツ、ほ!」といつて、私はボシャリボシャリと行つた。
「如何したんです?」
と弟が吃驚して顏色を變へたから、
[Pg 133]「なに、たゞ… 家に斯うしてゐるのが愉快だもんだからね。」
弟は微笑した。
その樣子が如何にも私を赤兒か年下の者のやうに思つてゐるらしかつたが、其癖私より三つ下なのだ。
而して自分は大人ぶつて凝と考込んだ所は、何か年來思惱む一大事でも有りさうな樣子だつた。
やがて首を竦めて、
「迯げやうにも、迯路がない。
每日殆ど同時刻に新聞が人の血の通ひを止めて、人間が皆愕然とする。
其時皆一度に種々な氣持になつて、考へたり、[Pg 134]泣いたり、苦しむだり、怖れたりするから、私は縋り處がない。
全で浪に揉まれる木片か、旋風に捲かれた塵といふ身の上になる。
尋常一樣の凡境を離れたくはないが、無理に引離されて、每朝一度は屹度宙に振下つて足の下に眞暗な怖ろしい狂氣の淵が洞開る時がある。
私は其中に此淵の中へ落る、落ちなきやならん理由がある。
兄さんはまだ能く事情を知んなさらないのだ。
新聞は讀みなさらんし、種々匿して置く事もあるし、――兄さんはまだ能く事情を知んなさらないのだ。」
弟の言つた事は私は戯言にして了つた。
戯言に[Pg 135]しても、可厭な戯言だが、誰でも氣が狂ふと、戰爭のやうな氣違沙汰と緣を引く所が出來て來て、能く此樣な不吉な事を言ひたがるものだから、私は戯言にして了つた。
湯に涵つてボシャリ〳〵行つてゐる此時には、戰塲で目擊した事は總て忘れたやうになつてゐたのだ。
「いや、匿すなら、匿して置くが好いが、――しかしもう出やう」、と何心なく私が言つたので、弟は微笑して、下男を召んで、二人して私を湯から出して着物を被せて吳れた。
で、香氣の高い茶を私のと極めて線入りのコツプで飮むで、なんの、[Pg 136]足がなくても、生きてゐられる、と思つた。
茶が濟むでから、書齋へ連れて行つて貰つて、机に向つて、仕事に掛る用意をした。
戰爭前迄は或雜誌で外國文學の評論を受持つてゐたから、今も手近に黃、靑、鳶色、種々の表紙の附いた、懷かしい、淸潔な書物が山と積むである。
嬉しさも嬉しい、何とも言へず樂しみで、直ぐに讀む氣になれなかつたから、書物を繙げては、徐と撫でゝゐた。
其時私の面には微笑が漾つた。
屹度馬鹿氣た微笑だつたらうが、引込める事が出來ないで、活字や、唐草や、簡素した、少しも俗[Pg 137]氣のない、見事な挿繪なぞを眺めてゐた。
皆非常に工夫を凝したもので趣味がある。
例へば、この文字など、簡單で、恰好が好くて、巧みに出來てゐる。
線と線とが絡み合つた處に調和があつて、看る者の心に語る所が多い。
之を案じ出すには、幾干の人が刻苦して、硏究して、何程才能、趣味を籠めてあるか、分らん。
「さあ、仕事しなきや」、と私は眞面目になつて言つた。
我仕事ながら疎かには思へぬ。
で、ペンを取上げて題を書かうとすると、手が糸で括つた蛙のやうに、紙の上を跳ね廻る。
ペン[Pg 138]が紙に突掛つて、バリ〳〵といつて、跳反つて、止度なく橫へ逸れて、毟散したやうな、曲りくねつた、えたいの分らぬ、醜い線が出來て了ふ。
私は聲も立てず、動きもせず、一大事の直と身に逼るを覺えて、冷りとして息を塞めてゐると、手は晃々と明るい紙の上を躍つて、指が一本々々わなわなと顫へる。
その顫へる處に、便りない、物狂ほしい恐怖心が活きて躍つてゐる。
どうやら指だけがまだ戰塲に居殘つて、空に映る火影や血糊を見て、言語に絕えた疼みを呻き叫ぶその聲を聽いてゐるやうだ。
指は私の體を離れて、魂が籠り、[Pg 139]耳となり、眼となつたのだ。
聲をも揚げ得ず、動くこともせず、私は冷たくなつて、晃々と潔い白紙の上を指が躍廻るのを眺めてゐた。
寂然としてゐる。
家内の者は私が仕事をしてゐると思ふから、物音させては邪魔にならうと、戶は皆閉切つてある。
動くことも叶はぬ私は獨り室内に居て、大人しく手の顫へるのを眺めてゐた。
「なに、何でもない」、私は大聲に言つた。
書齋の掛離れて寂然とした中で、聲は皺嗄れて厭に響渡る。
狂人の聲のやうだ。
「なに、何でもない。
文句を口授すりや好い。
ミルトンも復樂園を書い[Pg 140]た時にや、盲人だつたと云ふ。
己はまだ物を考へる事は出來る。
これが何よりだ。
これさへ叶へば、文句はない。」
で、盲目のミルトンの事を意味の深い長い文句に仕立てゝ見やうとしたが、言葉が紛糾つて、締めの利かぬ活字のやうに、ほろ〳〵と零れ落ちて、漸く文句の末になつたと思ふ頃には、もう始の方を忘れてゐる。
其時如何して此樣な事になつたのか、何故ミルトンとかいふ人の事を變な無意味な文句に仕立てやうとしてゐるのか、懷出さうとして見たが、憶出せなかつた。
[Pg 141]「復樂園々々々」、と反覆して見たが、何の事だか、分らない。
そこで考へて見ると、私は一體能く物忘れをするやうになつた。
妙に放心してゐて、見識つた人の面をも見違へる。
尋常の話をしてゐてさへ言葉が見付からんで、時とすると言葉は覺えてゐても、どうしても意味の分らん事もある。
頓て今日一日の事が瞭然胸に浮んで來たが、何だか妙な、短かい、ぶつりと切れた、私の足のやうな一日で、加之も處々ポカンと穴の開いた變な處がある。
これは長いこと意識の消えてゐた、或は無感覺であつ[Pg 142]た間だから、其時の事を憶出さうとしても、何一つ憶出せない。
妻を呼ばうと思へば、名を忘れてゐる。
それを又不思議とも何とも思はない。
窃と小聲で言つて見た、
「細君!」
落着の惡い、此樣な塲合に用ひた事のない此言葉が低く響いて、返答をも待たんで、消えて了ふ。
寂然としてゐる。
家内の者は心なく物音をさせて私の仕事の邪魔をすまいとしてゐるのだ。
寂然としてゐる。
如何にも學者の書齋らしい。
靜かで、[Pg 143]居心が好くて、觀念をも誘へば、作意を催す便りともなる。
あゝ、皆己の事を思つてゝ吳れると、私は染々嬉しく思つた。
…で、感興、神來の感興が湧いて來た。
頭の中で燦と日が照出して、創造の力を載せた熱い光を世界の上に落す時、花が散り、歌が散る。
花に歌だ。
私は徹夜ペンを措かなかつたが、疲れを覺えなかつた。
雄大な神來の感興の翮を皷して、縱橫無碍に翔廻つて、文を作つた。
天地間の一大文章だ、千歲不磨の文章だ。
花が散り、歌が散る。
花に歌だ…。
[Pg 144]
(後篇、斷篇第十)
…兄は幸ひ前週金曜日に世を去つた。
反覆していふが、これは兄の爲には大なる幸福である。
總身のわな〳〵と震へる、亂心した、足無しの不具者が製作の熱に浮されてゐる處は無氣味も無氣味だつたが、慘澹でもあつた。
其夜から丸二タ月、絕食で椅子に掛けたまゝ書通してゐた。
少しでも机から引離せば、泣いて罵しる。
乾いたペンで紙の上を搔廻しては、一枚々々撥退けるその迅さは眼を驚かすばかりで、書いて〳〵書き捲くる。
一[Pg 145]睡もしない。
催眠劑を多量に服ませて、やつと二度幾時間か床に就かせた事があるばかりで、それからはもう藥もその製作の狂熱を抑へる力を失つた。
當人の望に任せて、終日窓の帷を引いたまゝ、ランプは點しばなしで、夜らしく見せかけた中で、兄はシガレットを燻らしくゆらし、書いてゐた。
傍から見ては、頗る自得の體であつた。
健康の人にも此程の興の乗つた面を私はまだ見た事がない。
豫言者か大詩人といふ面相であつた。
甚く窶れて、死人か行者のやうに、蠟色の透徹つた肌になり、頭も全く白くなつて、この物狂ほしい仕事を始め[Pg 146]た時は、まだ〳〵若かつたが、之を終る頃には、既に老翁になつてゐた。
時としては例になく急いで書く時がある。
すると、ペンが紙に突掛つて折れるけれど、氣が附かない。
かういふ時には、手も着けられんので、若し誤つて一寸でも觸れば、發作が起つて、泣くやら、笑ふやらする。
滅多にはないが、時には暫らく心に掛る雲もないやうに、快げに打寛ろいで、機嫌よく私と話をする事もある。
いつも其時は屹度、お前は誰だ、名を何といふ、文學を始めてからもう餘程になるか、と聞く。
それが濟むと、今度は、自分は記憶力を失つて、[Pg 147]もう仕事が出來ぬかと思つて、滑稽にも吃驚したが、さう思ふ下から直ぐに花や歌を題に、千古の大作に掛つて、この馬鹿らしい取越苦勞を立派に根底から覆へしたといふ話になつて、いつも極り切つた文句で、體を下して其事を話して聞かせる。
「無論私は今の人に認められやうとは思はん」、と何も書いてない白紙の山に震へる手を載せて昂然とはするが、さりとて敢て激した樣子はなく、「が、未來だ、――未來では私の理想が認められる時もあらう。」
戰爭の事は一度も言出した事がない。
妻や子供[Pg 148]の事も其通り。
果しのない、幻のやうな仕事に全く魂を打込んで了つて、此より外には眼中に何もないやうに思はれた。
側で步いても、話をしても、一向氣が附かぬらしく、いつも感興に乗つて一心不亂になつた面をして、些との間も其面相を改めない。
皆眠入つてゐる夜の寂然とした中で、兄一人果しのない狂亂の糸を撚つて倦むことを知らぬその樣子は慄然とする程で、私と母との外には、側へ行き得る者もなかつた。
或時私は偶然本當に何か書くかと思つて、乾いたペンの代りに鉛筆を宛がつて見た事があつたが、紙に殘つた筆の跡を[Pg 149]見れば、矢張只のむしつたやうな、曲りくねつた、えたいの分らぬ、醜い線であつた。
息の絕えたのは夜で、矢張執筆中であつた。
私は兄の心持を能く知つてゐたから、氣が狂れたのに格別驚きもしなかつた。
甚く文筆を戀しがつてゐたのは、まだ戰地からの手紙にも微見えてゐた事で、歸つてからも其が即ち命であつたが、この願と、苦み拔いた、疲れ果てた、甲斐ない腦と撞着しては、破滅を來すべき運命であつた。
私は兄が此晚に運盡きて死ぬまでの心持を次第を逐うて可なり精確に記し得たと思ふ。
兎も角も爰に私が[Pg 150]戰爭について記した所は、死んだ兄の話に材を取つたので、話は大抵辻褄が合はないで紛らはしかつたけれど、唯或時或折の光景は深く腦に染みて消えなかつたと見えて、殆ど話の儘を書取れば、それで事足つた。
私は兄を愛してゐた。
兄の死は石の如く私の心頭に橫はつて、その死の無意味な事が腦を壓して苦しい。
かねて蜘蛛の巢のやうに頭を包む不思議な物のある上に、更に輪を掛けて締付けられるやうだ。
家族は皆田舎の親戚の處へ行つて了つて私一人家に殘つてゐたが、此家は小さな一軒建で、[Pg 151]大層兄の氣に入つてゐた。
召使共には皆暇を遣つて了つたから、每朝隣家の門番が煖爐を焚付けに來るばかりで、跡は私一人きりだ。
宛然二重窓の隙間へ締込められた蠅のやうに、狂廻つては隔ての變な物で鼻を衝く。
透徹つて見えるけれど、これが中々破れない。如何しても此家を迯出されぬやうな氣がする、然う思はれる。
かう一人になつてみると、戰爭の事が氣になつて、片時も忘れられん。
解けぬ謎か、肉で包めぬ靈というやうに、それが目前に控へてゐる。
これに種々の形を賦けて見る。
或は馬に跨つた目の無い骸骨と見、或は[Pg 152]雨雲の中から湧いて出て、窃と大地を包むおぼろげな影と見るが、どう見ても私の掛けた問の答にはならないで、絕えず胸を鎖す冷たい鈍い恐怖の念は汲むでも〳〵汲み盡されぬ。
私は戰爭といふものゝ意味がわからぬ。
これでは矢張兄のやうに、乃至戰地から後送せられて來る多くの人のやうに、氣違にならねばなるまいが、それはさう怖ろしいとも思はぬ。
私が本心を失ふのは、番兵が勤務に殪れるやうなもので、名譽の事だと思ふ。
たゞ、しかし、じり〳〵と弛みなく狂氣になつて行くのが辛い。
何か大きな物が深い[Pg 153]淵に陷るやうな刹那の氣持が辛い、膓を毟る想念の耐へぬ痛みを抱くのが辛らい…私の心は默して了つた、絕入つて、もう新しい生命を得る事も出來ぬ。
しかし想念はまだ生きてゐる、まだ※[#立+宛]《もが》いてゐる、曾てはサムソンの如く强かつたのが、今は小兒のやうに繊弱くて便りない。
私は私の哀れな想念が傷ましい。
時々鐵輪の腦を締付ける苦痛に堪えぬ時には、町の、廣小路の、人通りの多い處へ驀然に駈出して行つて、大聲に呼はつてみたくなる、
「只た今戰爭を止めろ! 止めんと…」
[Pg 154]止めんと、如何する? 世に人間の惑を解くべき言葉が有るか? かういへば、あゝと、同じ樣に壯語して、癖言も言へば言へる。
或は人間の前に跪いて泣いたら? 數十萬の人の泣聲が世を撼つても、何の効もないでないか? 或は人間の前で自殺して見せたら? 自殺。
每日數千といふ人が命を殞しても、何の効もないでないか?
かうして自分の力では奈何ともすることが出來ぬと思ふと、私は氣が坐ろになる、――呪ふ所の戰爭に感れて、其狂味を帶びて來る。
兄の話のドクトルのやうに、妻子珍寶諸共に人間の栖家を焚[Pg 155]きたくなる、その飮む所の水に毒を投じたくなる、所有死人を棺から引出して亡骸を汚れた人の寢臺の上に抛付けたくなる。
汝等人間、妻を抱き情婦を抱いて眠る如くに、死骸を抱いて睡り去れ!
あゝ惡魔になりたい! 地獄の慘たる有樣を此世に寫して、人間に見せ付けて遣りたい。
人間の夢を司つて、人の親が笑顏をして眠らむとしては、其子に十字を切掛ける時、眞黑な姿をして其面前にヌツクと立つてやりたい…
私はどうしても氣が狂ふ。
たゞ、狂ふなら、早く狂へ、――一刻も早く狂へ…
[Pg 156]
(斷篇第十一)
…俘虜で、恟々した、震へてゐる一團の人だ。
之を車室から引出した時、見物は唸つた、――短かい脆弱い鎖で繫いだ、大きな、意地の惡い犬の如く唸つた。
唸つてから、默つて肩で息をしてゐると、俘虜逹は手を衣囊へ入れ、白い齒を見せて媚びるやうに微笑しながら、犇と目白押に押塊まつて行く。
それを見ると、今にも背後から長い棒で臑の處をビシヤリと打られるといふ人の足取だ。
が、中で一人落着いて、微笑ともせず、險相な面[Pg 157]をして行く者がある。
私と目を視合せた時、其黑い目の中に公然の衣着せぬ媢嫉が讀めた。
此男は私を卑しんでゐて、此奴何を爲るか知れたものでない、と思つてゐたに違ひない。
若し私が獲物も持たぬ此男を斬らうとしたら、必ず聲をも立てず、手向ひも辯解もしなかつたらう。
私は何をするか知れた物でない、と思つてゐたに違ひない。
も一度此男と眼を視合せたくなつて、見物と共に駈出して行つた。
俘虜逹が收容所へ入る時、願が叶つて、其男が先あ身を開いて戰友を皆通してから、自分も内へ入らうとして、と又私の面を視[Pg 158]た。
黑い、大きな、瞳の散つた眼に、無限の恐怖と狂氣とを浮べて、如何にも苦しさうで、之を見ては世に是程の不幸ない心持になつてゐる人は有るまいと思はれた。
「あれは何者です、あの變な眼付をしてゐる男は?」
と護送の兵士に尋ねて見ると、
「士官です。
狂人なんで。
あゝいふのは澤山有ります。」
「名前は?」
「默つてゝ名前を言はんのです。
外の俘虜も知ら[Pg 159]んといふから、大方餘所のが紛れ込んで來たんでせう。
もう一度首を縊らうとしたのを助けた事があるんで、や、どうも手が附けられない!…」
と兵士はその手の附けられないといふ事を手眞似でして見せて、戶の内へ隱れて了つた。
で、かう晚になつてから、此俘虜の事を考へてみると、あゝして獨り敵中に居る。
如何な目に遭はされるかも知れない、と思つてゐる。
味方は居ても、知つた面は一人もない。
默つて、浮世の隙の明くのを辛抱强く待つてゐるのだが、それにしても如何も狂人とは思へぬ。
臆病でもなさゝうだ。
[Pg 160]皆魂が身に添はずぶる〳〵物でゐる中で、獨り昂然としてゐる。
恐らく其仲間をも仲間と思つてゐまい。
如何な心持でゐるだらう? 死に臨むで名を言ふまいといふ、その絕望の深さは測り知られぬ。
名を言つたとて何の益がある? 今は是迄の命と覺悟して、人間の眞價を覺つた身には、周圍で如何なに騷いだとて、喚いたとて、又威嚇したとて、眼中にもう人間はない、敵もなければ、味方もない、――といつた氣になつてゐるのだらう。
此男の身の上を聞糺してみたら、一度に數萬の戰死者を出した此頃の怖ろしい戰鬪の時、捕虜にな[Pg 161]つたので、捕虜になる時、抵抗しなかつたと云ふ。
何故か武器を持つてゐなかつたのを、それとは氣が附かずに一兵卒が劍を揮つて斬付けると、起上りもせず、手を戟にして攔りもしなかつたが、創は淺かつた。
創の淺かつたのは、此男の身にしたら生憎な事だつた。
しかし全く狂人でないとも云へぬ。
護送の兵士もさういつたが、かういふのは澤山有るさうな…
(斷篇第十二)
…そろ〳〵始まつた。
昨夜兄の書齋へ入ると、[Pg 162]兄が安樂椅子に恁れて、書物に埋つた机に對つてゐる。
手燭に火を點けると、幻は直ぐ消えて了つたが、久らくは其安樂椅子には凭る氣になれなかつた。
初の中は恐ろしかつた、――ガランとした室内に、何か絕えずさら〳〵といふ音や、ぱち〳〵と物の爆る音がして薄氣味惡かつたが、而し兄なら他人には勝だと思ふと、寧ろ居心が好くなつた。
が、それでも此晚は徹宵椅子を離れなかつた。
離れたら、直ぐ兄が掛けさうに思はれて。
室を出る時は、背後を向かずに、急いで出た。
家中に燈火を點けたものか――いや、それにも及ぶまい[Pg 163]か? 燈火で何かゞ見えたら、尙ほ無氣味だらう。
此儘だと、まだ多少の疑を存して置く事も出來る。
今日手燭を持つて部屋へ入つたら、椅子には誰も掛けて居なかつた。
してみると、昨夜は唯影がちらりとしたばかりで有つたのだ。
又停車塲へ行つてみると、――もう此頃では每朝行く事にしてゐるのだが、行つてみると、味方の瘋癲患者ばかりを載せた車輛がある。
戶も開けずに別の線路へ移して了つたが、それでも窓から幾人かの面が見えた。
皆怖ろしい面であつた。
殊に一人の患者の面は法外に間が延びて、レモンのやうに黃ろく、[Pg 164]明放しの眞黑な口に据つた眼と、どう見ても「無殘」を面に刻むだやうな面で、私は之に眼を奪はれて了つた程だつたが、直と私と眞向ひに向き合つて、凝と首を据ゑて、其儘眉一つ動かさず、目じろぎもせずに、動き出す汽車と共に行過ぎて了つた。
これが停車塲で仕合、若し家のあの暗い戶口で此面が見えたら、私は到底も堪へ切れなかつたらうと思ふ。
聞いて見たら、後送された瘋癲患者は廿二名だつたと云ふ。
愈々流行するものと見える。
新聞では一向噂もせぬが、市内でも徐々其萠が見えるやうだ。
礑と戶を締切つた眞黑な馬車[Pg 165]を折々見かける。
今日一日に彼方此方で六臺も見掛けたが、大方私も今に彼に乗る事であらう。
新聞紙は每日軍隊輸送の必要を說く。
更に血を流す必要があると云ふ。
如何いふ譯だか、私は愈愈分らない。
昨日奇怪千萬な論文を讀むだ。
その說に、國民中にも軍事探偵、賣國奴、謀叛人が澤山有るから、銘々戒心して十分に注意しなければならんが、國民の公憤に照されては、此極惡人等も遂に其跡を晦ますことは出來まいとあつた。
此極惡人等とは如何な人逹の事で、如何な惡事を働いたのだらう? 停車塲を出て電車に乗つたら、[Pg 166]車中で變な話を聞いた。
大方其極惡人逹の噂をしてゐたのだらう。
「さういふ奴等は裁判も何も有つたものぢやない、卒然絞罪に處しツ了ふが好いのです、」と一人が言つて、胡亂さうに皆を視廻した序に、私の面をも瞥りと視て、「謀叛人は絞殺るに限る。」
「用捨なくな」、と今一人が合槌を打つて、「もう散散用捨して遣つてますからな。」
私は電車を飛降りて了つた。
皆戰爭には泣かされてゐる、彼人逹も矢張然うだらうに、――これは又如何した事だ? 如何やら絳い霧が大地を包む[Pg 167]で人の目を遮り、實に世界の破滅が近づいたやうに段々思はれて來る。
兄が見たといふ赤い笑が是れだ。
かなたの血みどろの赤黑くなつた野から、狂亂の風が吹いて來て、大氣の中にその冷たい氣息の傳はるを覺える。
私は屈强な男だ、病で身體を壞した爲に腦髓が溶けて來たのではないが、病毒が傳染して私の心の半はもう私の自由にならぬ。
これはペストより惡い、ペストより怖ろしい。
ペストなら、まだ何處へか躱れる法もある、何かしら豫防法を施す事も出來るが、遠近もなく、障隔もなく、何處へでも徹る思想には躱れる道がない[Pg 168]ではないか?
晝はまだ凌げるが、夜になると、私も人並に夢の奴になつて了ふ、――その夢が又怖ろしい狂氣染みた夢で…
(斷篇第十三)
到る處私鬪が行はれて、無意味に夥しく血を流す。
聊かの衝動にも直ぐ無法な腕力沙汰になつて、ナイフや石塊や棍棒が閃き、相手構はず手當り次第に打殺す。
鮮血が兎角迸りたがつて、何の苦もなく滾々と流れる。
[Pg 169]その百姓は六人で、丸込めした銃を擔げた兵が三人で護送して行く。
皆如何にも百姓じみた、粗末な、野蠻人に髣髴たる、原始的の服裝で、宛然粘土で捏ちたやうな別種の面をして、髮の毛も髯もくしや〳〵と塊まつて寧ろ毛物の毛のやうで、それが富み榮ゆる市街を、紀律の正しい兵士に護送せられて行く所は、古の奴隸を面りに見るやうだ。
皆戰地へ召集せられて行くので、銃劍には敵し得ず、屠所へ引かれる牛のやうに、罪の無い面をしてキョトンとして行く。
最先に行くのは頰髭も生えぬ、脊の高い若者で、鵞鳥のやうなひよろ[Pg 170]長い頸へ、小さな頭を据ゑてゐる。
枯枝のやうな身體を前屈みにして、凝然と足元を睇視めた目色は地中へ喰入りさうだ。殿に行くのは脊の低い、髯だらけの、年配の男だつたが、もう反抗する氣力もないらしく、思慮のない目色をして、地が足に汲付くのか、喰付くのか、兎角離れかねて、烈風に向つたやうに、身を反して行く。
一步を移すにも、兵士に背後から銃の臺尻で小突かれて、辛と片足を引離し、わな〳〵しながら踏出すけれど、片足は地に附着いてゐて中々離れない。
兵士も厭な面をして不機嫌さうだ。
もう長いこと斯うして[Pg 171]行くらしく、銃を擔げた振にも、田舎漢らしく内輪に思ひ〳〵に步く足取りにも、困憊して萬事を抛遣りにしてゐる處がある。
意味もなく、思切り惡く、默つて百姓等が反抗するので、紀律で固まつた頭も濛となり、何處へ何の爲に行くのか、もう分らなくなつたといふ樣子だ。
「何處へ連れて行くのです?」と私が一番端の兵に聞くと、その兵は愕然として私の面を見た。
ギロリとした銳い目色で視られた時には、正しく銃劍を突付けられて、その切先が胸へグサと刺さつたやうな氣持がした。
[Pg 172]「側へ寄つちや不好! 退け! 退かんと…」
例の年配の男が此瞬間の隙に乗じて迯出した。
チョコ〳〵と小走りに走つて、路端の柵の根方へ、隱れる積なのか、蹲んだ。
眞の動物でも此樣な呆けた狂人染みた事はすまい。
兵は大に怒つた。
つか〳〵と側へ行つて屈むと、銃を左手に持易へるや、右手で何か柔かい平たい物を打つ音がピシャリとした。
又ピシャリといふ。
人が環集つて來る。
笑ふ聲や喚く聲がする…
(斷篇第十四)
[Pg 173]…土間の十一に居た。
右左から誰の腕だかに直と身を挾まれながら、周圍を見廻はすと、ズツと向ふまで一面に凝と据ゑた人の首が薄暗い中に列んでゐるのが、舞臺の火影を受けて微と赤く見える。
かうした狹い處に此樣に人が詰まつてゐるのを見てゐると、次第に怖ろしくなつて來る。
皆默つて舞臺の臺詞を聽いてゐる、――或は何か餘所事を考へてゐるのかも知れぬが、多人數なので、默つてゐても、俳優の大きな聲よりも能く聞える。
咳をする、涕を拭む、衣摺の音に足を踏易へる音がする。
深い荒い息氣遣ひの音さへ判然聞えたが、[Pg 174]此息氣遣ひの爲に空氣は生溫くなるのだ。
かうしてゐる人が皆死人になる時にはなる、皆の頭も狂つてゐる、――と思ふと、身の毛が彌竪つ。
丁寧に梳した頭を白い堅いカラーの上に確と据ゑて鳴を鎭めてゐる處に、狂氣の暴風雨が今にも吹起りさうな氣味がある。
隨分の人數だつたが、これが皆怖ろしい人逹で、加之も私の居る處から出口迄は餘程ある、――と思ふと、指の先まで冷たくなつた。
皆落着いてゐるけれど、若し大聲に、「火事だ! …」といつたら…と思ふと、慄然とする。
薄氣味が惡いけれど、[Pg 175]何だか切りに然う言つて見たくて耐らなくなる。
今でも其時の事を憶出すと、指の先迄冷たくなつて冷汗が出る。
言はうと思へば、言へん事はない。
起上つて、背後を振向いて、大聲に斯ういふのだ、
「火事だツ! 迯ろ〳〵、火事だツ!」
さうしたら、今は那麽落着いてゐる手足に急に狂氣が取付いて慄ひ出す。
皆躍り上り、叫び出し、畜生のやうに、哮り立つて、妻や姉妹や母親の居るのも忘れて、不意に盲目になつたやうに、彼方此方と彷徨し、氣も坐ろになり、果は香水の馨の[Pg 176]高いあの白い手で互の咽喉を締出す。
燦と塲内を明るくして、誰だか眞蒼な面をした者が舞臺から何でも有りません、火事でも何でも有りませんと呼はると、戰くやうに斷續した樂聲が思切つて花やかに起るけれど、もう其樣な物に耳を假す者はない。
ドタバタと互の咽喉を締め合ひ、或は婦人の頭を打つ、手數を掛けて巧みに結上げた髮をポカ〳〵と打つ。
互に耳を引捥り、鼻を喰缺く。
衣服も何も引裂れて赤躶になるけれど、氣が狂つてゐるから、恥を恥とも思はない。
平生は吾神と崇める、淚脆い、優しい、美しい婦人逹が泣聲立て[Pg 177]て、足元に便りない身を悶え、かねての男氣を賴みにして膝に縋付くのに、その美しい面を擧げた所を忌々しさうに撲曲げて、自分は出口へ出やうと焦心る。
男はいつでも人殺しを行りかねぬ。
その長閑に上品めかしてゐるのは、食に飽いた動物が命に懸る大事もないと安心して落着いてゐるのに過ぎぬ。
で、見物の半分は死骸になつて、ぼろ〳〵した服裝の人逹が一塊り、出口の處にわな〳〵と、畜生が恥を搔いたやうな面をして慄へながら、苦笑をしてゐる時、私が舞臺へ出て、斯ういつて笑つ[Pg 178]てやるのだ。
「みんな私の兄を殺した報だと思ひなさい。」
ね、かういつて笑つてやるのだ、
「みんな私の兄を殺した報だと思ひなさい。」
何か大聲で私が獨言を言つたと見えて、此時右隣りの人が忌々しさうに身動きをして、
「シッ! 邪魔になつて聞えやしない。」
私は氣が浮々する。
串戯けて見たくて堪らない。
事有りげな、生眞面目な面を作つて、其方へ持つて行くと、
「何です? 何故其樣に人の面を視るのです?」
[Pg 179]と其人が胡亂さうに聞く。
「靜かに」、と私は唇ばかりを動かして咡く。
「甚くキナ臭いでせう? 火事ですぜ。」
者奴中々の氣丈者で分別の有る奴と見えて、聲は立てなかつた。
さツと顏色を變へると、牛の膀胱程な大きな眼球が飛出して頰へ振ら垂る程になつたけれど、それでも聲は立てなかつた。
そつと起上つて、私には禮も言はずに、わく〳〵して蹌踉けながら、それでも急かずに出口の方へ行く。
此中で迯出して命を助かる價値の有るのは自分ばかりと己惚れて、他の者が火事に氣が附いてその[Pg 180]迯路を塞ぐを恐れてゐたらしい。
私は氣色が惡くなつて來たから、矢張芝居を出て了つた。
此處で正體を顯はすのはまだ早いとも思つたので。
で、外へ出て戰地の方角を眺めてみると、空は森として、火影の黃に映る夜の雲が長閑に徐かに漾つてゐる。
空も町も餘り閑かなのに欺されて、「皆夢で、戰爭も何も有るんぢやないのかも知れん」、と私は思つた。
が、曲角から子供が飛出して、何だか嬉しさうに大聲で、
「そーら滅茶苦茶な大戰爭! 大變な討死だい![Pg 181]電報買つてお吳んな。
今夜の電報だぜ。」
街燈の火影で讀むで見ると、戰死四千とある。
芝居の見物だつて千以上は無かつたらう。
家へ歸る途々も、四千の死骸〳〵と、始終其事ばかりを思つてゐた。
かうなると、ガランとした家へ入るのが氣味が惡い。
鍵を孔に押入れて、何も言はぬ平らな戶を眺めたばかりで、もう人も住まぬ眞暗な部屋々々が殘らず心に浮ぶ。
今其中をキョロ〳〵しながら帽子を冠つた者が一人通る所だ。
不知案内の通路ではないけれど、まだ梯子段を登る時から、マッ[Pg 182]チを擦つて、手燭を見付ける迄、點し續けてゐた。
兄の書齋へはもう行かぬ。
書齋は在形の儘全然直と締切つて、錠が卸してある。
私は食堂へ引越してゐたが、今夜も其食堂に寢るのだ。
食堂の方が居心が好い。
話聲や、笑聲や、食器の鳴る賑かな音がまだ太氣中に籠つて居さうに思はれる。
時々乾いたペン先のさら〳〵と紙上を走る音が判然聞える事もある。
寢臺へ橫になると…
(斷篇第十五)
…愚にも附かぬ夢だけれど、怖ろしい夢だ。
宛[Pg 183]然葢の骨を剝がれて、腦が覆ふ物もなく露出しになつたやうに、物狂ほしい血羶い今日此頃の慘たらしさを、吸はせられる儘に吸ひ込んで飽くことを知らぬ。
縮んで寢れば、身は二アルシンを塞ぐに過ぎぬけれど、心は世界をも包む。
所有人の目で觀、所有人の耳で聽き、戰死者と共に死に、負傷して置去りにされた者と共に泣き悲しみ、人の流す血に私も痛みを感じて惱む。
無い物までも有るやうに、遠い物さへ近く顯然と見えて、曝した腦の苦痛に際限がない。
子供々々、小さな子供、まだ罪を知らぬ子供。
[Pg 184]その子供等が町中で戰爭ごツこをして、逐ひつ逐はれつしてゐる中に、誰だか細い稚ない聲でもう泣く者がある。
私は怖ろしさも怖ろしく、厭な厭な氣持になつて、何か胸が躍るやうに覺えた。
家へ歸れば、夜になつて、夜火事のやうに炎える夢に、このいたいげな罪の無い子供等が、小さな人殺ろしの惡黨の群になつたと見た。
何だか眞赤な太い火焰を擧げて物凄く燃える烟の中に、首は大人の、加之も惡黨らしく、胴は不具の子供の變化らしい物が蠢めく。
山羊の子が戯れるやうに、身輕くピョン〳〵跳廻つてゐる癖に、[Pg 185]病人のやうな苦しさうな息氣遣ひをする。
蟇か蛙のそれに似た口を、パクリと開いては顫かせ、躶身の透徹るやうな皮越しに赤い血の流れるのが見えて、その子供等は遊び戯れながら、討ちつ討たれつする。
小さくて何處へでも潜り込むから、此程無氣味な物を私は曾て見た事がない。
私が窓から覗いてゐるのを、小さい一人が認めるや、莞爾して、内へ入りたさうな目色をしながら、
「其處へ行くよ。」
「來たら取殺すだらう?」
[Pg 186]「其處へ行くよ。」
忽ち諷と顏色を變へて、白壁を攀登る所は宛然鼠だ、饑えた鼠だ。
落ちてチゝと鳴く、又ちよこちよこと壁を走る。
その變化の烈しいこと、遽だしいこと、見る眼も迷ふばかりだ。
戶の下からなら、潜り込める、――と思つて私が慄然とすると、さう思ふ人の心を讀むだやうに、鼠は身を細長くして、尻尾の先をひらめかしながら、表口の戶の下の暗い隙間へ潜り込む。
私が夜着を被つて隱れてゐると、小さな奴が小さな素足の音を偸み〳〵、暗い部屋々々を尋ね廻る音がす[Pg 187]る。
そろり〳〵と、躇躊ひがちに、私の部屋へ忍び寄つて、遂に中へ這入つて來たが、それぎり久らくはガサともゴソとも言はないから、寢臺の側に何が居やうとも思へぬ。
忽ち誰だか小さな手で夜着の端を捲くる者がある。
室内の冷たい氣がヒヤリと面に觸れ、胸に觸れる。
私はしかと夜着を抑へてゐたが、夜着は止度なく其處ら中から剝れて、足が水へでも涵つたやうに、急に冷たくなる。
頓て兩足とも冷たい暗い部屋の中に便りなく橫はれば、鼠はそれを眺めてゐる。
壁一重隔てゝ庭で犬の啼聲がして、ト罷むと、[Pg 188]鎖のぢやら〳〵といふ音がして、犬は小舎へ潜り込むだやうだ。
鼠は默つて私の素足を眺めてゐる。
それが側に居るのは自ら知れる。
堪らなく怖ろしくて、死神に抱窘められたやうに、身體が竦み、石の墓か何ぞのやうに、寂と動かなくなるにつけても、それは知れるが、若し大聲を立てる事が出來たら、私は此市どころか、世界中を呼覺したかも知れん。
只聲が中途で立消えをして出て來ぬので、大人しく凝然としてゐたが、小さい冷たい手先がむづ〳〵と身體中を這廻つて、咽喉元へ逼る。
[Pg 189]「堪らん!」と片息になつて、喚いて瞬く間に目を覺す。
夜は深々として靈あるが如く、暗くても能く見えたが、私は又眠入つたらしかつた…
「何も心配する事はないよ」、と兄が寢臺の端に腰を卸した。
亡者でも重たくて、寢臺がギシ〳〵といふ。
「何も心配する事はない。
皆夢だ。
咽喉を締められるやうな氣がするので、お前は實は誰も居ない眞暗な部屋でグッスリ寢込んでるのだ。
ね、私は書齋で書いてるのだ。
何を書いてるのか一向知らんもんだから、お前方は私を狂人扱ひにして失禮な眞似をしてゐるけれど、もう斯うなりや打明[Pg 190]けやう。
私は實は赤い笑ひの事を書いてるのだ。
お前に見えるか?」
何やら大きな眞紅な血だらけの物が私の上に覆さつて、齒のない口元でゲタリと笑つてゐる。
「これが赤い笑だ。
地球が狂氣になると、かういふ笑方をするものだ。
お前知つてるだらう、地球の氣の違つた事は? もう花も歌もなくなつて、地球は圓い、滑こい、眞紅な、皮を剝いた頭のやうな物になつて了つた。
見えるか?」
「見えます。
今笑つてます。」
「地球の腦髓がえらい事になつて了つたから、御[Pg 191]覽。
眞紅なところは血の粥とでも謂ひさうだ。
滅茶々々になつて了つた。」
「何か喚いてる。」
「痛いのだ。
もう花も歌もないからな。
さあ、己がお前の上へ乗つかるぞ!」
「乗つかつちや、重たい、氣味も惡い。」
「死んだ者なら、生きてる者の上に乗かるべき筈だ。溫かいだらう?」
「溫かです。」
「好い心持か?」
「死にさうだ。」
[Pg 192]「目を覺してワッといへ。目を覺してワッと。
己はもう行く…」
(斷篇第十六)
戰鬪が始まつてから、もう八日目になる。
過る週の金曜に始まつて、土曜、日曜、月曜、火曜、水曜、木曜と過ぎて、又金曜が來て其も過ぎたが、まだ戰鬪は止まぬ。
兩軍の兵數十萬、それが相對して一步も退かずに、凄まじい音を立てゝ、息氣をも續がず破裂彈を打ち合ふので、刻々に生人が死人になつて行く。
段々轟々と絕えず空氣を撼る[Pg 193]其砲聲に、空も動搖んで眞黑な夕立雲を呼び、雷霆は頭の上で磤めくけれど、敵も味方も此處を先途と討ちつ討たれつしてゐる。
人は三晝夜眠らんと、病を得て物も覺えぬやうになるといふのに、况して是はもう一週間も眠らずに居るのだから、皆狂氣になつてゐる。
であるから、苦しいとも思はない、退かうともしない、一人殘らず討死して了ふ迄は、奮鬪せんとするのだ。
風聞に據ると、某隊では彈藥が盡きて、石を投げ合ひ、拳で毆ち合ひ、犬のやうに咬み合つたと云ふ。
若し此戰鬪の參加者で生還する者があつたら、狼のやうに牙[Pg 194]が生えてゐやうも知れぬが、恐らく生還者は有るまい、皆狂つてゐるから、一人殘らず討死して了はう。
皆狂つてゐる。
頭の中が顚倒して何も分らなくなつて居るから、若し急にグルッと方向を變へさせられたら、敵と思つて味方に發砲しかねまいと思はれる。
奇怪な噂がある…奇怪な噂で、怖ろしくもあるし、只だ事でないと虫が知らせたから、皆蒼くなつて、ひそ〳〵と咡く。
あゝ、兄に聞かせたい、皆赤い笑の噂だ。
聞けば、幻しの部隊が現はれたと云ふ。
いづれも何から何迄生人と些とも違はぬ[Pg 195]亡者の集團だ。
夜は狂つた人逹が霎時の夢を結ぶ時、晝は晴れた日も黃泉と曇る戰の眞最中に、忽然と現はれて、幻しの砲で發砲して、怪しの砲聲に空を撼ると、生きてはゐるが、氣の狂つた人逹が、事の不意なのに度を失つて、死物狂ひに其幻しの敵と戰ひ、怖れて取逆上せて、一瞬の間に白髮になり、紛々と死んで行く。
幻しの敵は忽然として現はれて、又忽然として消え失せる。
と、寂然となつた跡を見れば、散々に形の害はれたまだ生々しい死骸が、狼藉と地上に橫つてゐる。
敵は果して何者だつた[Pg 196]らう? 敵の果して何者だつたかを、私の兄は知つてゐる筈だ。
二度目の戰鬪も終つて、四下は寂然となる。
敵は遠方だ。
それだのに、闇夜に突然ドンと一發怯えたやうな筒音がする。
それツと跳起きて、皆暗黑の中へ發砲する、――久らく、何時間といふ間、寂として音沙汰のない暗黑の中へ發砲する。
暗中に何を認めたのか? 怖ろしくも物狂ほしい無言の姿を現した無氣味な者は抑も何者だ? 之を知つてる者は兄と私とだけで、まだ他の人は知らない、只感ずるだけは感じて居ると見えて、蒼くなつて此樣な事をいふ、「如何して斯う狂人が多いの[Pg 197]でせう? 此樣なに澤山狂人の有つた事はまだ聞いた事がない。」
「此樣なに澤山狂人の有つた事を聞いた事がない」といつて、皆蒼くなる。
今も昔も變らぬと思つて居たいのだ。
遍く人の良智を無理に抑へて居る力は銘々の果敢ない頭の上へは及ばぬと思つてゐたいのだ。
「昔だつて、何時だつて、戰爭はあつた、しかし曾て此樣な事はない。
戰爭は生存の理法だ」、と斯ういつて皆澄して落着いてゐるけれど、其癖皆蒼くなつてゐる、皆眼で醫者を捜してゐる、皆狼狽[Pg 198]へた聲で、水を、早く水を、と叫んでゐる。
人は皆内に動く良智の聲を聞くまいとして、無意味な事に爭ひ負けて其分別の鈍り行くのを忘れやうとして、ならば白痴になりたいと思ふ。
戰地では刻々に人の死に行く今日此頃、私は如何しても安閑としてゐられぬから、其處ら中世間を駈廻つて、人の話も隨分聞いた、なに、戰爭は遠方だ、我々には關係はないといつて、故意とらしく微笑する人の面も隨分見た。
が、それよりも多く出逢つたのは、虛飾を去つた眞實の恐怖である。
心細い苦い淚である、「この狂暴の殺戮はいつ止めるの[Pg 199]だ!」といふ、絕望の物狂ほしい叫聲である。
人が大なる良智に力一杯膓を絞られて、最後の祈禱、最後の呪咀を唱へ出す時、能く此叫聲を發する。
久しいこと、或は數年になるかも知れぬが、足踏みしなかつた去方で、狂氣になつて後送せられた一將校に出逢つた。
同窓の友だのに、私は見違へた位で、產みの母さへ分らなかつたと云ふ。
一年も墳穴に埋つてゐて再び此世に出て來たとて、かうはあるまいと思はれる程の變り樣で、頭も白く、全く白くなつて了つてゐた。
面貌は餘り變つてもゐなかつたが、默つて聽耳を立てゝゐる其面[Pg 200]色は世離れして、人間とは緣遠く怖ろしげなので、言葉を掛けるさへ無氣味になる。
如何して氣が違つたのだといふと、親戚の聞込んだ所では、彼の隊が豫備隊となつて、隣りの聯隊が突貫した事がある。
大勢が駈けながら、ウラー、ウラーと喚く。
大聲に喚くので、殆ど銃聲も聞えなくなつた程だつたが、其中にふと銃聲が止む、――ウラーが止む。
寂然と墓の如く靜かになつたのは、敵の陣地に走り着いて、彌〻白兵戰が始まつたのだ。
彼は此時寂然となつたのに堪へなかつたのだと云ふ。
今では側で話をしたり、叫んだり、騷いだりし[Pg 201]てゐると、落着いて聽耳を立てゝ何かの聞えるのを待つてゐるが、一寸でも閑かになると、我と我頭に挘りつくやら、壁や家具へ駈上らうとするやら、癲癇めいた發作を起して藻搔く。
親戚が多いので、其等が交る〴〵病人を取卷いて騷いでやつてゐるが、それでも夜がある、長い音のせぬ夜があるから、父親が夜を引受ける。
これも矢張白髮頭の少し氣の變な親仁だが、チクタクの音の高い時計を幾つとなく壁に掛連ねて、たがひ違ひに間斷なく時を打たせてゐたが、近頃では絕えずパチパチといふやうな音を出す輪を仕掛けてゐるさう[Pg 202]な。
まだ二十七だから、全快すると思つて、望を將來に繫けてゐるから、今では家内が寧ろ陽氣である。
軍服は着せないが、瀟洒した服裝をさせて、見ともなくないやうに仕て置いてやるから、白髮でこそあれ、面相はまだ若々しく、擧動も力の脫けたやうに悠然と品が好く、物思ひ貌に凝と注意してゐる形は寧ろ美しい。
始終の話を聽いて、私は側へ行つて、その男の蒼白い、萎え〳〵とした、もう刃を揮翳すこともない筈の手に接吻したが、之には誰も目を側てる者もなかつた。
唯友の若い妹が目に微笑を含むで[Pg 203]私を見たばかりだつたが、それからは其娘が、許嫁でもあるやうに、私の跡を追廻して、此世に掛易のない男のやうに私を慕ふ。
餘り慕はれるので、私も不覺眞暗なガランとした家に、獨居よりも厭な思をしてゐる事を話さうとした程だつたが、人の心といふものは愛想の盡きる物だ。
何時だつて絕望してゐる事はない。
娘の計らひで差向ひになつた時、其人が優しく、
「まあ、貴方のお顏色の惡いこと! 眼の下に環が出來てますよ。お加減でも惡いのですか? それともお兄樣がお可哀さうでならないの?」
[Pg 204]「兄ばかりぢやない、人間が皆可哀さうです。
尤も少し加減も惡いが…」
「私し貴方が兄の手に接吻なすつた譯を知つてますよ、――皆は氣が附かなかつたやうですけど。
あの、何でせう、兄が狂氣だから、それでゞせう?」
「さうです。
狂氣だから、それでゞす。」
娘は凝と思案に沈む、――その樣子が兄に酷肖であつた、――只逈然と若いばかりで。
「私し」、と娘は言淀むでサツと赤面したが、伏目にもならないで、「私し貴方のお手に接吻したいわ。
[Pg 205]許して下すつて?」
私は娘の前に膝を突いて、
「祝福して下さい。」
娘は聊か顏色を變へて身を引いたが、唇ばかりで囁くのを聞くと、
「私し信者ぢやないわ。」
「私だつてもそれは然うだ。」
娘の手が一寸私の頭に觸れた。
それが濟むと、
「私し戰地へ行つてよ。」
「それも好いでせう。しかし到底も耐へられまい。」
[Pg 206]「それは如何だか知れないけど、だつて貴方も兄も然うだけど、戰地の人だつて打遣つて置く譯には行きますまい? 罪も何もない人逹ですもの。
貴方、私を忘れちや下さらない?」
「决して。貴孃は?」
「私もそんなら、御機嫌よう!」
「もう二度とはお目に掛れまい。
御機嫌よう!」
死にも狂氣にも尤も畏るべき處がある、――それを私は經過したやうな心持がして、ホッとした。
氣も落着いた。
久し振で昨日は、怖ろしいとも何とも思はず、平氣で家へ入つて、兄の書齋の戶を[Pg 207]開けて、其筐の机に對して、久らく椅子に倚つてゐた。
夜中にドンと何かに衝かれたやうな心持でふと目を覺すと、乾いたペン先が紙上を走る音がしたが、私は驚かなかつた。
殆ど微笑せぬばかりの心持になつて、心の中で、
「澤山お書きなさい。
ペンも乾いたのぢやない、――生々しい人間の血潮を含んでゐる。
原稿も白紙のやうに見えやうが、其方が寧ろ好い。
何も書いてないだけに無氣味で、聰明な人逹が種々な事を書立てるよりも、戰爭や理性に付いて多くを語る。
お書きなさい、〳〵、澤山お書きなさい。」
[Pg 208]…今朝新聞を讀むで見ると、まだ戰闘が止まぬので、私はまた薄氣味惡くなつて來て、心が落居ず、宛然腦の中で何かガタリと落ちたやうな心持がした。
その何かゞ向ふから來る、近くなる、――もうガランと明るい家の敷居に立つてゐる。
あゝ、彼の人が懷かしい、何卒私の事を忘れて吳れるな。
私は氣が違ひさうだ。
戰死三萬、戰死三萬…
(斷篇第十七)
…市内も何となく血羶い。
判然した事は分らぬけれど、何だか怖ろしい噂がある…
[Pg 209]
(斷篇第十八)
今朝新聞を見ると、澤山の戰死者の姓名が出てゐる中で、一人知つた名前がある。
それは私の妹の許嫁の一將校で、亡兄と一緒に召集された人だ。
一時間後に配逹夫が投込んで行つた手紙を見ると、兄へ宛てたもので、表書の書風で分つたが、その戰死した妹の許嫁から來たのだ。
死人が死人へ手紙を寄越したのだ。
けれども死人が生きてる人に文通したよりまだ勝だ。
これは私が現に逢つた去る婦人の身の上だが、その息子が砲彈に粉韲され[Pg 210]て無殘な最後を遂げたのを新聞で知つてから、全一ケ月の間每日其息子から手紙が來る。
優らしい息子で、手紙にはいつも優しい事を書いて母を慰めて、何か幸福を得る望みあり氣な若い愛度氣ない事ばかり言つて寄越す。
此世の人ではないけれど、これが惡魔の几帳面といふものか、每日缺がさず此世の事を書いて寄越すから、母親は遂に伜は戰死したのでないと思ひ出した。
が、ふと音信が絕えてから、一日二日三日と過ぎ、それからも死默に入つて、何時迄待つても音沙汰がないので、母親は兩手で古風な大形のピストルを取上げて、[Pg 211]胸へ丸を打込んだと云ふ。
助かつたやうにもいふが、私は能くは知らぬ。
判然した事を聞かずに了つた。
私は久らく封筒を眺めてゐたが、考へて見ると、此封筒も曾て故人の手に觸れた事があるのだ。
何處でか之を買はうとして、錢を持たせて從卒を、何處かの店へ遣つたのだ。
故人は此手紙の封をしてから、或は自分でポストへ入れたかも知れぬ。
で、郵便といふ複雜な機關が運轉し出して、手紙は森や野や市街を餘所に見て、只管目的地を指して走る。
最後の日の朝、手紙の主が長靴を穿いた[Pg 212]時、手紙は走つてゐた。
主が戰死した時にも、手紙は走つてゐた。
主が穴へ投込まれて死骸が土の下になつた時にも、消印を帶びた灰色の封筒の中に身を忍ばせて、靈ある幻の如く、手紙は森や野や市街を餘所に見つゝ走つて、かうして今私の手中に在るのだ。
手紙の文句は下の通り。
鉛筆で幾片かの紙の切端に書いたもので、結末も附いてゐない。
何か邪魔が入つたものと見える。
⦅…今となつて始て戰爭の大に樂しむべき所以を知つた。
利口な、狡猾な、裏表のある、肉食動物[Pg 213]中の肉食動物より、遙かに味のある人間といふやつを殺す樂しみは、古風な原始的な樂しみで、鎭長に人の生命を奪ふといふ事は、行星なんぞを抛げてテニスを行るよりも、愉快なものだ。
君は哀れだ。
僕は君が僕等と倶に在ることを得ずして、無味な平凡な日を送つて、無聊に苦しむ身の上になつたのを悲しむ。
君が高尙な精神から、安きを偸んで居られずして、永く求めた所のものは、死地に入つて後、始て獲られる。
血に醉ふといふこと、比喩は稍古めかしいが、眞實は反て這裏に在る。
僕等は膝まで血に蘸り、此赤葡萄酒に醉つて[Pg 214]チロ〳〵目になつてゐる。
赤葡萄酒とは名譽ある僕の部下の兵が戯れに命じた名だ。
人の生血を飮むといふ風習は、人の思ふ程、馬鹿氣たものではない。
古人も承知して行つた事だ…⦆
⦅…鵶が啼いてゐる。
君に聞えるか、鵶が啼いてゐるぞ。
何處から此樣に飛んで來たのだらう! 空も黑む程だ。
天下に可畏物なしの僕等と列んで、鵶は宿つてゐる。
何處へ行つても隨いて來る。
いつも僕等の頭の上に居るから、黑レースの傘を翳してゐるやうで、又葉の黑い木の動く蔭に居るやうだ。
一羽僕の面の側へ來て突つかうとした。
彼[Pg 215]奴僕を死人と間違へたのだらう。
鴉が啼いてゐる、少し氣になる。
何處から此樣なに飛んで來たのだらう?⦆
⦅…昨夜僕等は睡耋けた敵を鏖殺しにした。
鴨を仕留める時のやうに、窃と、足音を偸んで、巧く、用心して這つて行つたから、死骸に一つ躓かず、鳥一羽起たせなかつた。
幽靈のやうに、忍んで行く、それを又夜が隱して吳れる。
哨兵は僕が片付けてやつた、突倒して置いて、聲を立てぬやうに咽喉を締めたのだ。
少しでも聲を立てられたら、百年目だからなあ、君。
しかし聲を立てなかつた。
[Pg 216]殺されると思つてゐる暇が無かつたやうだ。
篝がぷす〳〵燻つてゐる。
敵は其側に眠てゐた。
我家で寢臺に臥たやうに、安心して眠てゐた。
其處を僕等は一時間餘も屠つたのだ。
斬らぬ中に眼を覺したのは幾人もなかつたが其樣な奴等は悲鳴を揚げて、無論赦して吳れといつた。
喰付きもした。
一人の奴なんぞ、僕が頭を引摑むと、摑みやうが惡かつたので、左の手の指を咬み切りをつた。
指は咬み切られたが、其代り見事に首を引捻つてやつた。
如何だ、君、これなら帳消しになるまいか?いや、皆能く眠込んで居やがつたよ! 骨を[Pg 217]斬れば、ポキンといふな、肉を斬れば、ザクッといふのだ。
それから丸裸にして置いて、お四季施の分配をやつたが、君、串戯いふと思つて怒つちや不好ぜ。
君は小六かしいから、それぢや野武士臭いといふかも知れんが、仕方がないさ。
僕等だつて殆ど裸だもの。
全然着切つて了つたのだ。
僕は疾うから何だか女の上衣のやうな物を着てゐるのだ。
これぢや常勝軍の將校ぢやなくて、何かのやうだ。
それはさうと、君は結婚した樣だつたな?それぢや、此樣な手紙を見ちや、惡かつたらう。
しか[Pg 218]し…なあ、君、女に限るぞ。
えい、糞、僕だつて靑年だ、戀に渇してゐるンだ!おツと――君にも約束した女が有つたつけな?君は何處かの令孃の寫眞を僕に示せて、これが僕の婚約した女だと曰つた事があるぜ。
寫眞には何だか悲しい、非常に悲しい、哀れな事が書いてあつたつけ。
而して君は泣いたぜ。
何を泣いたのだつけな? 何でも非常に悲しい、非常に哀れな、小さな花のやうな事が書いてあつたつけが、何だつけな? 君は泣いたぜ、――泣いて〳〵、泣き立てたぜ… 見ともない、將校の癖に泣くなんて!⦆
[Pg 219]⦅…鴉が啼いてゐる。
君、聞えるだらう?鴉が啼いてるぞ。
何だつて彼樣に啼くのだらう?…⦆
此後は鉛筆の跡が消えてゐて、署名も讀めかねた。
******
不思議だ。
此人の戰死したのが知れても、私は些とも哀れと思はなかつた。
面を憶出すと、判然浮ぶ。
優しい、しほらしい、女のやうな面相で、頰は桃色、眼中は淸しく、朝の如く潔くて、髯は柔かなむく毛で、これなら女の面の飾りにもなりさうに思はれた。
書物や、花や、音樂を好み、總[Pg 220]て粗暴な事が嫌ひで、詩など作つてゐた。
批評家の兄が中々巧みだといつてた位だ。
が、此人について私の知つてゐる所を憶ひ出したのでは、どうもこの鴉啼きや、夜襲の血の海や、死と調和せぬ。
…鴉が啼いてゐる…
ふツと、瞬く間、調子外れの何とも言ひやうもない嬉しい心持になつてみると、今迄の事は皆僞で、戰爭も何も有りはせん。
戰死者もなければ、死骸もない。
思想の根底が搖いで便りなくなるなぞと、其樣な怖ろしい事も有るのではない。
私は仰向に臥て、子供のやうに怖ろしい夢を見てゐる[Pg 221]のだ。
死や恐怖に荒されて寂然となつた無氣味な部屋々々も、人の書いた物とも思へぬ手紙を手に持つた私も、皆夢だ。
兄は生きてゐて、家内の者は皆茶を飮むでゐる。
茶器の物に觸れて鳴る音も聞える。
…鴉が啼いてゐる…
いや、矢張事實だ。
不幸な世の中――それが事實では有るまいか? 鴉が啼いてゐる。
理性を失つた狂人や、無事に苦しむ文士などが、安直の奇を求めて思ひ付いた空言ではない。
鴉が啼いてゐる。
兄は何處に居るか。
氣品の高い、溫順な、誰[Pg 222]にも迷惑を掛けまいと心掛けてゐた人だ。
兄は何處に居る? さあ、忌々しい解死人めら、返事をしろ! 呪つても足らぬ惡黨めら、牛馬の屍肉に集つた鴉めら、情けない愚鈍な畜生めら、――さあ、手前逹は畜生だ、――世界の人の面前で手前逹に聞いてるのだぞ! 何咎あつて兄を殺した?手前逹に面があるなら、頰打喰はしてやる所だが、手前逹には面はない。
手前逹のそれは肉食動物の鼻面といふものだ。
人間の風をしてゐても、手套の下から爪が見えるでないか? 帽子の下から畜生のひしやげた惱天が見えるでないか? 幾ら利[Pg 223]口さうな口を利いても、手前逹の言ふ事には狂氣じみた所があるわ。
繍錠のぢやら〳〵いふ音がするわ。
己は己の悲しみ、憂ひ、侮辱せられた思想の力の有丈を盡して、手前逹を呪ふぞ、この情けない愚鈍な畜生めら!
(最後の斷片)
「…生存上新生面を開くのは諸君の任務であります、」と辯士は叫むだ。
此人は「戰爭を戢めよ」と書いた文字が皺でよれ〳〵になつた旗を揮りながら、手で釣合を取つて、辛うじて小さな圓柱の上[Pg 224]に立つて居るのだ。
「諸君は靑年である、諸君は未來に生活すべき人である。
宜しく此の如き狂暴慘酷なる事と關係を絕つて、以つて自己の生命を保つべきである。
未來の國民の種を保全すべきである、我々は今日の慘狀を見るに忍びぬ。
之を目擊しては眼中の血走るを禁ぜぬ。
實に天が頭上に落懸り大地が足下に裂けるやうな感がある。
諸君…」
此時群衆が尋常ならぬ動搖を作つたので、辯士の聲は其に消壓れて一しきり聞えなくなつたが、實に靈でも籠つて居さうな、物凄い動搖であつた。
[Pg 225]「假りに我輩は氣が狂つてゐるとするも、我輩の云ふ所は眞理である。
我輩には父があり兄弟があるが、皆戰塲で牛馬の屍の如く腐敗しつゝある。
宜しく篝を焚いて、穴を掘つて、武器を鑄潰して埋めて了ふが好い、軍人を捕へてその燦たる狂氣服を剝いで、寸裂して了ふが好い。
我々は最早忍ぶことが出來ぬ… 同類が死につゝあるのである…」
ト云ふところを、誰だか、何でも脊の高い男だつたが、撲飛ばしたので、辯士がころ〳〵と轉げ落ちる、旗が颯とまた飜つて、又倒れる。
跡は直[Pg 226]ぐ紛々となつて了つたので、辯士を撲飛した奴の面をツイ認める暇もなかつた。
俄かに其處ら中が皆動き出して、揉合ひ、壓し合ひ、押し反し、喚き叫ぶ。
石塊棍棒が空を飛び、誰を打つ拳だか頭上に閃めく。
群衆は靈ある浪の吼る如く哮り立つて、私を宙に釣上げたまゝ、數步の外へ運んで行き、いやと云ふ程垣根へ打付けて、又後戾りして今度はあらぬ方へ逸れ、到頭高く薪を積上げたのに推付けて了つたので、積み上げた薪が傾いで、あはや頭上へ崩れ落ちさうになる。
何かパチ〳〵と燥いだ音が頻りにして、材木にパラ〳〵と中る[Pg 227]ものがある。
と、靜まる――かとすると、又更にワッと云ふ。
鰐口開いて叫ぶやうな、太い大きな聲で、人間離れしてゐて物凄い。
またパチ〳〵と燥いだ音がする。
誰だか側で倒れたから、見ると眼の在る處に眞紅な穴が二ツ洞開て、血が滾々と流れて居る。
此時重たい棍棒がブンと空を切つて來て、其端が顏に中ると、私は倒げたから、踏躪る足の間を無闇に這脫けて空地へ出た。
それから何處かの垣根を越えて、一つ殘らず爪を剝して、薪を幾側も積上げたのへ攀ぢ登つた。
中で一側體の重みに崩れたのが有つたので、私はグヮラ〳〵[Pg 228]と飛散る薪と一緒に消飛んで、四角な穴のやうな中へ落ちたが、辛うじて其處を這出ると、轟々パチ〳〵ワッと云ふ音が後から追蒐けて來る。
何處でか半鐘が鳴る。
五階建の家でも崩れたやうな、怕ろしい音も聞える。
黄昏が凝付いたやうに、中々夜の景色にならず、彼方の銃聲、叫喚の聲が赤く色づいて夕闇を跡へ〳〵押戾したやうな趣がある。
最後の垣を飛降りると、其處はめくら壁に左右を劃られた、廊下のやうな、曲り拗つた狭い橫町で私は其處を駈出した。
久らく駈けて行つて見たが、つんぼ橫町で、行止りは垣根、其向うには[Pg 229]又薪や材木の積むだのが黑々と見える。
で、又踏めば崩れて踏應へのない嵩高な積薪を攀登つては何だか寂然として生木の匂のする井戶のやうな處へ落ち、落ちては又這上つてゐたが、どうも後を振向いて見る氣になれない。
また朦朧と薄赤く影が射して、黑ずんだ材木が巨人の亡骸のやうに見えるから、振り向いて見んでも、大抵樣子は知れてゐる。
もう面の傷の出血も止まつたが、面が無感覚になつて、我面のやうには思はれず、宛然石膏細工の面を被つてゐるやうな心持がする。
やがて眞闇な穴へ落ちた時、氣が遠くなつて遂に正體[Pg 230]を失つたやうにも思ふが、眞に正體を失つたのか、失つたやうな氣がしたのか、どつちだつたか分らぬ、私の覺えて居るのは、唯駈けて行つた事ばかりだ。
それから久らく街燈も點いてゐぬ知らぬ町々を駈廻つたが、何方向いても、眞黑な、死んだやうな家ばかりで、その寂然とした迷宮の中を脫出すことが出來なかつた。
方角を付けるのには、立止まつて四下を視廻はすが肝腎だが、それが出來ない。
遠方に聞える轟々といふ物音や、ワッと云ふ人聲が動もすると段々追付きさうになる。
時には[Pg 231]ふッと角を曲らうとして、正面に其聲に打付かる事がある。
聲は赤黑い球になつて舞揚る烟の中から赤々と響いて來る。
それッと引返して、また後になる迄走る。
去る曲角で一條燈火の射してゐた所があつたが、側へ行くと、ふッと消えて了つたのは、何處かの商店で急に戶を閉切つたのであつた。
廣い隙間から帳塲の臺の片端と何だか桶のやうなものが見えて、忽ち寂然と潜むだやうに暗くなつた。
其商店から遠くは離れぬ處で向うから駈けて來る人に出逢つた。
暗闇でもう二足で危なく衝當らうとして、互に立止まつた。
誰だか知らぬ[Pg 232]が、眞黑な…、身構をした人の姿が見える。
「君は彼方から來たのか?」
「さうだ。」
「何處へ行くんだ?」
「家へ歸るのだ。」
「むゝ、家へか?」
相手は少し默つてゐたが、突然私に飛蒐つて、推倒さうとする。
咽喉元を探り當てやうと、搔き廻す冷たい指先が衣服に絡まつてやツさもツさしてゐる暇に、私はその手に喰ひ付いて、振捥つて置いて駈出した。
相手は人も通らぬ町筋を靴音高[Pg 233]くしばらく追蒐けて來たが、其中に後れて了つた――大方喰付いてやつた處が痛むだのであらう。
如何してか、フト吾住む町へ出た。
矢張街燈もない町で、家々は死んだやうに、火影一つ射す處もなかつたから、これが吾町とは氣が附かずに駈通つて了ふ所であつたが、偶と目を擧げて見ると、我家の前だ。
が、私は久らく躊躇してゐた。
多年住慣れた家ではあるけれど、吐く息が荒ければ悲しげに物に響く、此の死んだやうな變つた町中で見ると、我家のやうには思はれない。
躊躇してゐる中に、や、顛んだ時に鍵を落しはせぬかと思ふ[Pg 234]と、愕然として氣も坐ろになり、遮二無二捜して見れば、なに、鍵は外隱袋にあつた。
で、錠をカチリと云はせると、其の反響が高く變に響いて町中の死んだやうな家の戶が一時に颯と開いたやうな心持がした。
…初は床下に隱れて見たが、それも佗しく、且つ眼の前に何かちらついて見えるやうで無氣味だつたから、窃と内へ忍び込むだ。
暗黑を手探りで方々の戶締りをし、さて勘考の末道具を押付けて置かうとしたり、それを動かす每に怕しい音がガランとした家中に響き渡る。
これに又膽を冷して、[Pg 235]「えい、」と思切つて、「このまゝで死なば死ね。
如何して死んだつて、死ぬのは一つだ。」
洗面臺にまだ生溫い湯があつたから、手探りで面を洗つて、布片で拭いたら、面の皮が釣れて傷がヒリ〳〵傷む。
鏡で見やうとして、マツチを點けて、そのちら〳〵と弱い火影に透して見ると、暗黑に何だか醜い無氣味な物が居て、私の顏をぢろりと見たので、狼狽てマッチを棄てゝ了つた。
が、どうやら鼻がめツちやになつて居るらしい。
「もう鼻なんぞ如何なつたつて構はん。
滿足だつて仕方がない。」
[Pg 236]かう思ふと、愉快になつて來た。
芝居で盜賊の役でも勤めて居るやうに、奇怪な身振や顏色をしながら、ブフエーへ行つて、殘物を探し出した。
探すに何も身振をする必要はない。
それはさうとも思ひながら、其癖面白くて身振が止められなかつた。
ひどく飢えてゐる積りで、矢張り奇怪な顏色をしながら、物を喰つて居た。
眞暗で寂然としてゐるのが無氣味だつたから、庭の覗窓を開けて、聽耳を引立てると、戶外はもう馬車一つ通らぬから、初は矢張寂然としてゐるやうに思はれて、もう銃聲も止むだらしい、――[Pg 237]と思ふ側から、幽に遠く人聲がする。
叫聲も、笑聲も、何かグヮラ〳〵と崩れる音も、物に紛れずして、やがてそれが判然と手に取るやうに聞えて來る。
空を瞻ると、赤黑い物がサッと飛んで行く。
向ひの納屋も庭先の敷石も、犬小舎も、矢張ぼッと薄赤く染つて見える。
「ネプツーン!」
と窃と窓から犬を呼んで見た。
犬小舎では何も動く氣色がなく、側の鎖の切れたのが赤黑く煌々と見えるばかり。
が、遠方の叫聲や、何やらの崩れ落ちる音が、次第に高くなつ[Pg 238]て來たから、私は覗窓を閉めて了つた。
「段々押寄せて來る!」
隱れ塲所を探す氣で、ストーヴの戸を開けたり、塗込め煖爐を探つたり、戸棚を開けたりしてみたが、そんな物では間に合はぬ。
部屋々々をも歩き廻つて見たが、書齋だけは覗く氣になれなかつた。
屹度兄が肱掛椅子に腰を掛けて、書物に埋つたテーブルに對つて居ると思ふと、餘まり好い心持がしない。
と、次第に歩いてゐるのは私一人でないやうに思はれて來る。
まだ幾人か近くの暗黑を默つて歩[Pg 239]いてゐる者があつて、殆ど私と擦れ〳〵になる事もあるやうだ。
一度其中の誰やらの息が領元に觸れて慄然と總毛立つた事もある。
「誰だ?」と私は小聲でいつて見たが、返事がない。
又歩き出すと、不気味な奴が默つて跡に踉いて來る。
加減が惡いので、それでこんな氣がするのだ、さう云へば熱も出て來たやうだ――と思ふけれども、恐ろしさを如何することも出來ん。
寒氣でもするやうに身體が慄へて、頭に觸つて見ると、火のやうに熱い。
[Pg 240]「チヨッ、書齋へ行かう。
何と云つても他人よりか好い。」
兄は果して肱掛椅子に倚つて、書物に埋つたテーブルに對つて居たが、今は彼時のやうに消えもせぬ。
帷を卸した隙から外の明りが薄赤く射してゐるけれど、物を照らす程でもないから、兄の姿はぼんやり見える。
私は兄とは懸け離れて、ソフアに腰を卸して成行を見て居た。
書齋は靜かで、のべつに轟といふ音、何かのグッラ〳〵と崩落ちる音、其處此處の叫聲が幽かに聞えてゐたのが、次第に近く押寄せて來る。
赤黑い光は益々強くな[Pg 241]り、肱掛椅子に凭つた兄の、眞黑な、鑄鐵で作つたやうな半面が、その細い赤い線の中に見えるやうになつた時、
「兄さん!」
と呼んでみた。
が、默つて居る。
石碑のやうに凝然と眞黑に居竦まつてゐる。
隣室の床板がピシリと爆て、急に妙に寂となる。
澤山な死骸の中にでもゐるやうだ。
音と云ふ音は皆消えて、赤黑い光までしんめりとした死の影を宿して、凝たやうに動かなくなり、其色も稍薄れる。
この寂しさは兄からと思つて、[Pg 242]其通りを云ふと、
「いや、己の所爲ぢやない。窓を覗いて御覽。」
帷を引除けて――私はたぢ〳〵となつた。
「おゝ、この故爲か!」
「家内を呼んで來て呉れ。
彼はまだ見たことがないから」、と兄がいふ。
嫂は食堂で何か裁縫をしてゐたが、私が行くと、針を縫物に差して、言はれる儘に起上り、私の跡に隨いて來る。
窓々の帷を皆引除けたら、薄赤い光が、廣い入口を射て、思ひの儘に室内へ流れ込むだが、何故だか内は明るくはならないで、矢張[Pg 243]暗かつた、唯窓だけ四角に赤く大きく燦然と明るく見えた。
皆で窓際へ行つて仰いで見ると、家の壁や軒蛇腹から、直ぐ火のやうに眞紅な、平坦な空になつて、雲も日も星も麗けずに、其儘地平線の彼方に没したやうに見える。
俯して見れば、矢張平坦な赤黑い野が死骸で埋つて居る。
死骸は皆裸體で、足を此方へ向けて居るから、此方からは唯蹠と三角の顎の下が見えるばかりだ。
寂然としてゐる――皆死骸と見えて、際限もない野に置去りにされた負傷者らしい者は一人も見えなかつた。
[Pg 244]「段々殖えて來る」、と兄が云ふ。
兄も窓際に立つて居たが、母も妹も家内中殘らず此處に居る。
誰も面は能く見えなかつたが、唯聲でそれと知れた。
「そんな氣がするンだわ」、と妹が云ふ。
「いや、殖えて來るのだ。
まあ、見て居て御覧。」
成程、死骸は殖えたやうだ。
如何して殖えるのかと、凝然と注目して居ると、とある死骸の隣の、今迄何も無かつた處に、フト死骸が現れた。
どうやら、皆地から湧くらしい。
空いた處がズン〳〵塞がつて行つて、大地が忽ち微白くなる。
微白く[Pg 245]なるのは、蹠を此方へ向けて、列んで臥てゐる死骸が皆薄紅いからで、それにつれて室内もその死骸の色に薄紅く明るくなる。
「さあ、もう塲所がない」、と兄が云ふ。
「もう此處にも一人居るよ」、と母がいふ。
皆振向いて見ると、成程背後にも一人仰反つて倒れてゐる。
と、忽ちその側へ一人現れ、二人現れる。
跡から〳〵湧いて出て、薄紅い死骸が行儀よく並び、忽ち部屋々々に一杯になる。
保母が、
「坊ちやん逹のお部屋にも出て來ましたよ。
私見[Pg 246]て參りました。」
妹が、
「逃げて行きませう。」
兄が、
「出道がない。
御覽、もう此通りだ。」
成程、死骸は其處ら中に素足を投出し、腕を聯ねて、ギッシリ詰まつてゐる。
それが見る〳〵蠢めき出して、恟とする間に、皆行儀よく列むだまゝ、むく〳〵と起上る。
新しい死骸が地から湧いて出て、舊から在るのを推上げたのだ。
「かうして居ると、首を締められる。
窓から逃げ[Pg 247]ませう。」
と私が云ふと、兄が、
「いや、窓からはもう逃げられん! 駄目だ! それ、あれを御覽!」
…窓外には、赤黑い光りの凝つた中に赤い笑が見える。
血笑記 終
明治四十一年八月五日印刷 血笑記奥付
明治四十一年八月八日發行 正價金八拾五銭
著者 長谷川二葉亭
東京市麹町區飯田町六丁目廿四番地
不 許 發行者 西本波太
東京市小石川區久堅町百八番地
複 製 印刷人 山田英二
東京市小石川區久堅町百八番地
印刷所 博文館印刷所
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
發行所 東京市麹町區飯田町 易風社
六丁目二十四番地 振替口座 一二〇三四番
Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)
誤植と思われる箇所は岩波書店発行二葉亭四迷全集第四巻(昭和三十九年 第一刷)を参照し以下のように訂正した。
原文 生若い (p.25)
訂正 生若い
原文 見たばかりて (p.59)
訂正 見たばかりで
原文 狂人 (p.64)
訂正 狂人
原文 血潮 (p.71)
訂正 血潮
原文 見れぼ (p.72)
訂正 見れば
原文 便りない聲て (p.85)
訂正 便りない聲で
原文 二本指て (p.96)
訂正 二本指で
原文 聞る! (p.108)
訂正 聞る!
原文 貴方を此樣にすれば (p.121)
訂正 貴方を此樣なにすれば
原文 折合ふ事が出來ん (p.125)
訂正 折合ふ事が出來ん
原文 一所 (p.125)
訂正 一所
原文 線か (p.138)
訂正 線が
原文 紙に歿つた (p.148)
訂正 紙に殘つた
原文 遂うて (p.149)
訂正 逐うて
原文 薄無味惡かつたが (p.162)
訂正 薄氣味惡かつたが
原文 ちらりとしたばかりて有つたのだ (p.163)
訂正 ちらりとしたばかりで有つたのだ
原文 銳い目色て (p.171)
訂正 銳い目色で
原文 ピシャり (p.172)
訂正 ピシャリ
原文 迯けろ (p.175)
訂正 迯ろ
原文 慓ひ出す (p.175)
訂正 慄ひ出す
原文 冷たい (p.187)
訂正 冷たい
原文 向ふから來る (p.208)
訂正 向ふから來る
原文 失つたやうにも (p.230)
訂正 失
原文 唯蹶と (p.243)
訂正 唯蹠と
原文 蹶 (p.245)
訂正 蹠
原文 切れ (p.237)
訂正 切れ
●文字・フォーマットに関する補足
113頁「弟は高笑をして、」「妹も合槌を打つて、」、118頁「弟はふと立止まつて、」の行は一字字下げした。
233頁の草書体の「志」は「し」に置換えた。「熱」の字は原文では「灬」の上が「執」の字。
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Section 2. Information about the Mission of Project Gutenberg-tm
Project Gutenberg-tm is synonymous with the free distribution of
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because of the efforts of hundreds of volunteers and donations from
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assistance they need are critical to reaching Project Gutenberg-tm's
goals and ensuring that the Project Gutenberg-tm collection will
remain freely available for generations to come. In 2001, the Project
Gutenberg Literary Archive Foundation was created to provide a secure
and permanent future for Project Gutenberg-tm and future generations.
To learn more about the Project Gutenberg Literary Archive Foundation
and how your efforts and donations can help, see Sections 3 and 4
and the Foundation web page at https://www.pglaf.org.
Section 3. Information about the Project Gutenberg Literary Archive
Foundation
The Project Gutenberg Literary Archive Foundation is a non profit
501(c)(3) educational corporation organized under the laws of the
state of Mississippi and granted tax exempt status by the Internal
Revenue Service. The Foundation's EIN or federal tax identification
number is 64-6221541. Its 501(c)(3) letter is posted at
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Literary Archive Foundation are tax deductible to the full extent
permitted by U.S. federal laws and your state's laws.
The Foundation's principal office is located at 4557 Melan Dr. S.
Fairbanks, AK, 99712., but its volunteers and employees are scattered
throughout numerous locations. Its business office is located at
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information can be found at the Foundation's web site and official
page at https://pglaf.org
For additional contact information:
Dr. Gregory B. Newby
Chief Executive and Director
[email protected]
Section 4. Information about Donations to the Project Gutenberg
Literary Archive Foundation
Project Gutenberg-tm depends upon and cannot survive without wide
spread public support and donations to carry out its mission of
increasing the number of public domain and licensed works that can be
freely distributed in machine readable form accessible by the widest
array of equipment including outdated equipment. Many small donations
($1 to $5,000) are particularly important to maintaining tax exempt
status with the IRS.
The Foundation is committed to complying with the laws regulating
charities and charitable donations in all 50 states of the United
States. Compliance requirements are not uniform and it takes a
considerable effort, much paperwork and many fees to meet and keep up
with these requirements. We do not solicit donations in locations
where we have not received written confirmation of compliance. To
SEND DONATIONS or determine the status of compliance for any
particular state visit https://pglaf.org
While we cannot and do not solicit contributions from states where we
have not met the solicitation requirements, we know of no prohibition
against accepting unsolicited donations from donors in such states who
approach us with offers to donate.
International donations are gratefully accepted, but we cannot make
any statements concerning tax treatment of donations received from
outside the United States. U.S. laws alone swamp our small staff.
Please check the Project Gutenberg Web pages for current donation
methods and addresses. Donations are accepted in a number of other
ways including including checks, online payments and credit card
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Section 5. General Information About Project Gutenberg-tm electronic
works.
Professor Michael S. Hart was the originator of the Project Gutenberg-tm
concept of a library of electronic works that could be freely shared
with anyone. For thirty years, he produced and distributed Project
Gutenberg-tm eBooks with only a loose network of volunteer support.
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